HOME>業界人のお話>第37回 池田洋幸さん 2019.5.7
業界人のお話


第37回 池田 洋幸 さん


株式会社IMARUYO
会長

明治時代、九谷の絵付職人の祖父が名古屋へ
――瀬戸でノベルティをつくることになった由来を教えてください

 九谷の絵付師だった祖父の池田與作が石川県から名古屋へ移ってきたのが、おそらく明治時代の終わりころです。日本陶器の絵付け部門に入ったと聞いています。その後、大正3年に瀬戸で山城柳平商店(のちの丸山陶器)が設立されると、瀬戸には上絵付けの技術がなかったために、ノベルティの上絵付けの指導をするために日本陶器が祖父を派遣しました。
  祖父は毎日名古屋から瀬戸へ通ってノベルティの上絵付けの指導をしました。その一方、南里貿易という商社と出会い、名古屋九谷という名称で輸出した食器の絵付けなども手伝ったと聞いています。アルバイトのようなものですね。それらで得た資金で、大正6年、池田與作商店を瀬戸で設立しました。
  もともとは名古屋で家を建てて骨を埋めるつもりだったようですが、瀬戸でノベルティの絵付けを手伝ったことがきっかけで、瀬戸で家を建てて事業を始めることになったわけです。そして、それを機に、仕事を手伝ってもらうために石川県や富山県から兄弟や親戚、知り合いを呼び寄せて、その後の礎を築きました。まあ、当時の職人たちは、仕事があって一杯飲めればいいので、喜んで移ってきたようですよ。
 その後、おそらく南里貿易を通じてアメリカへ小ぶりなノベルティを輸出したと思われます。貿易の仕事はあったので、事業は順調だったと思います。


名古屋九谷の食器セット アメリカ向けの
小ぶりなノベルティ

――戦後はどうでしたか?
 昭和25年に父の池田節夫が池田丸ヨ製陶と社名を変更し、レース人形をつくりました。レース人形というと、レースを使ってつくるものですが、当時は質の良いレースが手に入りませんでした。そのため、父はレースの代わりに和紙を使ってつくった。父は技術者だったんですね。
  戦後の瀬戸のノベルティを語るうえで外せないのが白雲陶器です。白雲陶器の製品開発にいち早く成功したのが本地陶業で、父もなんとか同じようなものをつくれないか試行錯誤し、製品化に成功。それによって事業はますます拡大していきました。
  磁器のレース人形のほかに、白雲の貯金箱、プランター、オルゴール付き人形、デコアニマル、動物など、大量に欧米へ輸出しました。
  その後、会社は欧米向けからイラン向け白雲製品の輸出が大きくなり、そのイラン向けが減少傾向になった頃に、わたしが入社しました。入社した時には、社員は100名くらいいました。


アメリカのバイヤーを自ら開拓
――イラン向けはどれくらいの割合だったのですか?

 井元産業、親和貿易、ジャパントレーディングなどを通じて、会社のつくるものの8割くらいはイラン向けだったはずです。商品を売る商社へついていった結果だったと思います。だからわたしが入社した昭和40年代後半には、イラン屋というレッテルが張られていたと思います。
  しかし、そのイラン向けが終わりかけていた。わたしが入社して最初の仕事は、イラン向けをやっていた商社へいってお金をもらってくることでした。ただ、集金に行っても、支払ってくれません。何回も集金に行って、やっと少し払ってもらえる程度。イラン向けは、お金が滞るほどになっていたわけです。
  それならということで、アメリカ向けをやっている商社へ営業に行くと、「お前のところなんて10番目くらいだ」と門前払い。頭にきました。


――で、どうしたんですか?
 思い切ってアメリカの展示会へ行って、アメリカのバイヤーは何を求めて日本へ来るのかを探ってきました。結局、アメリカのバイヤーは、「What's Next」。つまりアメリカで次は何が流行るのかを常に探っているということがわかりました。だから、わたしはアメリカでカードを買いまくったんです。流行っているものは、いち早くカードの絵になるからです。それを参考して製品をデザインして、バイヤーに直接見せると、これはおもしろいとか、これはおもしろくないとか意見を言ってくれる。
 で、日本へ戻って、その意見を参考に原型をつくって試作品まで仕上げた。すると、ある商社から電話がかかってきて、「なんや知らんけどお前のところへ行きたいというバイヤーがいる」という。それでバイヤーが来て、その後、注文がバーッと入った。それからは、いろんな商品をアメリカへ輸出しました。インディアン人形とか、アメフトとか、ほんとに無数。
 わたしは、その商社に対して「コミッションを10%とったら、うちは断るよ。5%にしてくれと」と話しました。うちが主導した商談だからです。ということから、会社が儲かるようになっていきましたね。


――アメリカ向けの思い出は?
 アメリカはホールマーク向けが伊藤幹三商店、ヨーロッパでは斎藤商店を通じて輸出していた。そのほかにはトレンドクリエイションとか、そのあたりの商社がわたしの言うことを理解してくれました。
 ホールマークからの注文で、磁器製のアールデコアニマルはすごかった。最初の注文が4000万円、次が4000万円、さらに4000万円で合計1億2000万円の注文がきた。3回目の注文の時には、さすがに間違いじゃないかと商社に問い合わせてもらったら、「まだ足りないと言っとる」と。
 ヨーロッパでも磁器製の涙目のピエロの人形がヒットした。最終的には3億円くらいは売りました。
 1ドル120円を切り始めたころ、茂木商事がアメリカのMarvins at the US Store(マービンス)との直取引の話を持ってきました。Marvins at the US Store(マービンス)はもともと台湾から商品を仕入れていたが、たまたま名古屋に立ち寄ってタオルフックはないかと言ってきたらしい。バイヤーが1000個買うというから、動物の形をしたカントリー調の白雲のタオルフックをつくりました。その後、さらに1000個の注文がきた。で、残った500個を工場で検品していたら、壁に掛けるフックがとれてしまったんです。接着剤の不良でした。すでに1500個はアメリカへ送ってしまっている。これはまずいことになったと感じました。ちょうどクリスマスイブのときです。
 商社へ問い合わせると、まだ商品はアメリカへ着いておらず、船に乗っているという。1月2日に半分がサンフランシスコ、残り半分は2週間後にロスに着く。それからの行動は早かったです。暇なオヤジとオフクロを連れてアメリカへ渡り、サンフランシスコとロスの倉庫で、3人で接着剤の不良を直しました。そして、日本へ帰ってきたら、追加で1万個の注文が来ていました。最終的に、そのタオルフックは30万個くらい売りましたね。一つひとつの商品には、みんなストーリーがあるんです。


アールデコアニマル 涙目のピエロ人形
Marvins at the US Store(マービンス)の
タオルフック
壁に掛けるフック

クリエイターであり、営業マンであり、技術者だった
――円高の影響は?

 円高が進んでも、1ドル100円の頃は、まだ注文は増えていました。しかし、80円になると、バイヤーはさっと引いてしまった。もうこれで終わりかなあと思っていると、東京ディズニーランドの注文が入りました。ミッキーを月5万個出荷しました。これで輸出から国内へ転換した。ただ、5年後、ディズニーランドの仕事も中国から仕入れるということで終わってしまいました。すると、その後、エステー化学の香りの製品がトータルで500万ピース出荷しました。
 しかし、それらもすべて中国製にとって代わられ、第二工場をクローズして、第三工場を三郷陶器に貸し、今は本社工場も売ってしまいました。愛知万博の期間中には公式キャラクター「モリゾー」「キッコロ」の人形をつくって売れたが、万博が終わったら、いよいよ事業も終わると思っていました。しかし、バイオリンやピアノの形をした白雲の時計とか、なんやかや今もアイデアを形にして販売しています。瀬戸市が藤井聡太君へ贈呈した陶器製の大きな将棋の駒もわたしが企画提案したものです。
 わたし自身は、輸出のいい時から円高の厳しい時代、それから国内内向けまで、いろいろ経験しました。クリエイターであり、営業マンであり、技術者だったと思っています。一人で何でもやった。オヤジが製造を担当して、わたしが営業に行く。そういう関係がうまく機能しました。オヤジはわたしに任せてくれました。だからわたし自身、成長することができたと思います。
 商売というのは人とのコミュニケーションですが、相手が期待していること以上のものを提案することが大切だと思います。そうすれば次につながっていく。
 今年は去年の3倍くらい受注を抱えているんです。今年69歳になりますが、まだまだ現役です。わたしは昔から人は何をやっているのかという好奇心が強かった。まだまだ意欲的だし、やることがいっぱいです。
【インタビュー・文 小出朝生】