HOME
>
業界人のお話
>第38回 山内由美子さん (元)本地陶業株式会社社長・山内正男子氏夫人 2021.1.21
業界人のお話
第38回 山内 由美子 さん
※写真は、創業者で義父の勇夫氏
(元)本地陶業株式会社社長・山内正男子氏夫人
初めて白雲の量産化に成功した本地陶業
瀬戸の本地陶業株式会社は昭和30年に創業されて、平成17年に会社としての幕を閉じた。約50年という年月のなかで、本地陶業が瀬戸ノベルティにおいて果たした役割は計り知れないほど大きい。いうまでもなく、白雲陶器の実用化・量産化が、ここ本地陶業から始まったからだ。その後、瀬戸では何百という白雲陶器メーカーが生まれ、白雲という素材は瀬戸ノベルティの飛躍に大きく貢献することになったが、それは本地陶業創業者である山内勇夫氏が人生をかけて挑戦した「白雲陶器の実用化」の成功があったからこそといっていいだろう。
白雲陶器の開発は、戦前、京都の国立陶磁器試験所で始まって、昭和8年ごろには試験所ベースでは完成していたもようだ。もともとはアメリカ市場において大きなシェアを占めていたドイツの石灰質陶器に替わるものをめざしてスタートし、白雲石(ドロマイト)を使用することで今までにない全く新しいタイプの低火度焼成用陶器の開発に成功した。
戦後、その素材に注目したのが、瀬戸の大竹産業に勤めていた山内勇夫氏である。勇夫氏は試験所の指導を受けながら、検討・試験を繰り返して課題を克服、白雲陶器実用化・量産化のために本地陶業を創業した。今回お話をうかがったのは、本地陶業を勇夫氏とともに支えた息子の山内正男子氏の妻・由美子さん。勇夫・正男子両氏がともに故人となった今、本地陶業が最も華やかなりし頃を知る貴重な証言者である。
――ご結婚はいつ頃ですか?
わたしは昭和54年にここへ嫁ぎました。主人のお義父さん(勇夫氏)はとても人格者で、尊敬できる生真面目で勉強熱心な方でした。カリスマ的な一目置かれる存在といっていいでしょう。
お義父さんの実家は愛知県内で窯業原料の商売をしていました。5人兄弟で、そのうち男が3人。お義父さんは次男でした。当初は、長男次男三男の3人で窯業原料の商売をやっていたようですが、お義父さんは、新しい事業へチャレンジしようと思って、京都や九州へ勉強に行って、瀬戸へ帰ってくるとノベルティメーカーの大竹産業に就職、そこで白雲についていろいろ研究を重ねたようです。
そして、研究の結果、白雲の大量生産が可能だと自信を持ち、大竹産業から4、5人と一緒に独立して、昭和30年に本地陶業を設立しました。
白雲という素材はすでに開発されていたようですが、工場ベースに乗せた最初の人がお義父さんと聞いています。主人はよく「特許をとっていたらなあ」と言っていました。
お義父さんは、陶芸作家のように偶然に良い作品ができたというのではだめだ、窯に入れたすべての商品の収縮率や色などが、常に均一であることが大切だと言っていました。技術者として、とても優秀だったんだと思います。工場で貫入が入った製品が出ると、すぐに担当者を呼び出して、「何をやっているんだ。もっと釉薬の研究をしろ」と指示していました。瀬戸の中では、本地陶業の製品の白色を真似しようと思ってもできなくて、一つの目標のようになっていたと聞きます。
お義父さんは、朝早く出社して工場内を丹念に回って、いろいろ指示をしていました。大きな製品を成形するための石膏型はかなり大きなものになりますから、その大きな石膏型を回転させる機械を導入して鋳込み作業の簡略化を図るなど、新しいことへもいち早く挑戦していました。
本地陶業を創業して白雲の製品をつくりはじめるとすぐに注文が入って売れ始めたようです。ノベルティが好調な時期でしたから、いいものをつくればすぐに売れた時代だったのでしょう。お義父さんは、白雲で製品のリアリティさを表現することにこだわっていました。釉薬の色がほんの少し違うだけで一窯全部がだめになってしまうので、そういう点を気にしていました。あとは、納期とかですね。
バイヤーの見本磁器
バイヤーの見本磁器
本地陶業の白雲製品
本地陶業の白雲製品
本地陶業の白雲製品
本地陶業の白雲製品
本地陶業の白雲製品
本地陶業の白雲製品
――本地陶業は順調なスタートをきったんですね。
創業後、しばらくして米国のフィッツ&フロイド(Fitz & Floyd)との取引が始まりました。(編集者註:Fitz & Floydは1960年にアメリカ・テキサス州ダラス市で創業。今も食器やノベルティを販売する会社として存続しているが、本地陶業と取引をしていた頃とは経営母体が異なる。本地陶業はFitz & Floydとの取引によって大きく成長した。由美子さんが嫁いできた昭和54年ころの売り上げは月商で約1億5000万円、150名ほどの従業員が働く、瀬戸の中では大きな工場となっていた)
しかし、その後、フィッツ&フロイドが会社を売却、次の経営者が白雲をあまり重要視しなくなってしまったため、アメリカ・カリフォルニアのオタギリ(OTAGIRI)というバイヤーとの取引が始まりました。それは、おそらく私が嫁いできた昭和54年以降だと思います。フィッツ&フロイドよりももう少し値段を落とした製品をやろうという感じだったようです。オタギリは通販でアメリカ全土に販売していたので、数はものすごく多かったです。 フィッツ&フロイドの製品のほうがしゃれているというか、センスがいい感じ、オタギリはかわいらしい感じですね。
製品のデザインは、アメリカからサンプルが送られてきて、それを参考に白雲を素材にしてつくれという指示です。もうすべての製品がその流れです。アメリカからカード(アドベントカードやポストカード)が送られてきて、そこに描かれているキャラクターを白雲で製品化したりもしました。
その指示をもとに、デザイナーの村上(鏡一)専務がカードに描かれた二次元のキャラクターを立体にしたり、テーブルウエアに展開したりしました。そういったアレンジが村上専務はとてもうまかった。アレンジのセンスが良かったんですね。
私が嫁いできた昭和54年ころにオタギリとの取引が始まっているんですが、お義父さんはオタギリの日系の社長さん宛てに「いいものをつくるからチャンスと注文が欲しい」と手紙を書いたと話していました。
確か、オタギリへは東京の大和通商という商社を通じて出していたと思います。フィッツ&フロイドの場合は、フィッツ&フロイドが日本に会社をつくっていて、そこを通じて出していたはずです。
バイヤーの見本磁器
本地陶業の白雲製品
バイヤーの見本磁器
本地陶業の白雲製品
――由美子さんのご実家は陶器と関係があったんですか?
わたしの実家は豊橋で陶器とは全く関係ありませんでした。瀬戸に来て驚いたのは女性がみんな働いていることです。ただ、お義父さんは身内の女性が自社で働くのを嫌っていて、女は家におればいいという考えのようでした。
本地陶業が創業した昭和30年から昭和54年までは、どんどん工場を拡張した時代です。九州からもたくさんの方が集団就職で来ました。(編集者註:本地陶業は昭和30年に資本金450万円で創業後、500坪の工場を建設し、重油窯1基、電気窯7基で操業をスタート。その後次々の工場を増設、寮や社宅なども建設し、窯もどんどん増えていった。九州からの従業員受け入れは、昭和33年に始めている)
その後、瀬戸のノベルティメーカーが台湾や中国などへ進出するようになりますが、お義父さんは、当時、瀬戸輸出陶磁器工業完成協同組合(のちに瀬戸陶磁器工業組合→瀬戸陶磁器工業協同組合に名称変更し、2018年に解散)の理事長をつとめていて、瀬戸の陶磁器産業を守らないといけないから海外へ出て行ってはいけないと常に言っていました。技術が流出してしまうから絶対に駄目だと。
その後、プラザ合意の翌年、お義父さんが亡くなりました。それでもまだ、バブルの頃は良かったんですが、バブル経済崩壊以降になると、白雲の輸出が不振になりはじめます。その頃、中国の深センで工場をつくってほしいと言われて、主人が何度か視察に行ったんですが、結局、中国へ進出はしませんでした。
輸出が芳しくないので、平成2年以降になると国内市場へ参入しました。加藤工芸さんとの取引で、イトーヨーカドー向けに犬の置物を販売。これがめちゃくちゃ売れたんです。3、4年間くらい続いたでしょうか。それで少し持ち直しましたね。
しかし、平成12年を境にして事業はどんどん悪くなっていきました。オタギリとの取引もほとんどなくなり、細々とものをつくっている感じでした。従業員もどんどん減っていって、本当に少人数でやっていました。ただ、工場の敷地は広いので、工場の端から端まで行くのに10分くらいかかってしまうほど、本当に不効率でした。
主人は平成17年に亡くなりました。その時の従業員は4人くらいです。
お義父さんが亡くなったのち、自分が頑張らないといけないと、すごいプレッシャーを感じていたと思います。ただ、会社のことはほとんど言わない人でしたから、私は何も知らなかったです。まあ、会社があまり良くないなとは感じていましたが、詳しくはわかりませんでした。お義父さんから会社を引き継いで以降は、いかにうまく会社の規模を縮小していくかが重要な仕事だったのではないでしょうか。
主人が亡くなる頃には、工場の一部を加藤工芸さんが借りてくださっていたほか、日産ディーラーへも貸していました。その家賃はすべて借金の金利で消えてしまうほど、きつい状態だったんです。亡くなる直前、岡崎のある企業が工場を借りたいという話がありました。計画がかなり進んだんですが、寸前で取りやめとなりました。そのストレスが亡くなる原因の一つだったかもしれません。
主人はストイックで、本当に規則正しい人でした。帰宅するのも毎日5時15分頃と決まっていました。残業もしませんでしたし、飲み行くことも家族で外食することもありませんでした。そうした性格だからこそ、会社の行く末には大きなストレスを感じていたのではないでしょうか。
お恥ずかしいことに、会社が多くの借金を抱えていることを、主人が亡くなって初めて知りました。銀行と話しても何もわからないので、義理の兄に相談すると、いろいろ手助けしてくれました。
輸出が落ち込んで、国内への転換を図るために、若い営業マンを採用して瀬戸の商社を回らせたことがあります。そうしたら、みんなに言われたそうです。「本地陶業さんは、まあ、一時期、いいときもあったよね」と。いいときには一緒に仕事をしようと声をかけてくることはなかったのに、苦しくなってから助けて欲しいと言われても困るという意味だと思います。
本地陶業が最盛期の時には、女の人が80人くらい、ベルトコンベアの前にずらっと並んで絵付けをしていました。九州からもたくさん働きに来ていました。本地陶業で出会って、結婚する人も多かったです。
今や、本地陶業という白雲のメーカーがあったことすら知らない人が多いのではないでしょうか。
本地陶業株式会社「創立25周年記念しおり」(昭和55年)
※画像クリックで拡大
勇夫氏あいさつ
※画像クリックで拡大
会社の概要
※画像クリックで拡大
会社の沿革
※画像クリックで拡大
※画像クリックで拡大
※画像クリックで拡大
(編集後記)
ご主人が亡くなった後、由美子さんは、本地陶業の工場内にあった資料やデザインの原画や石膏型、さらには窯やその他設備を処分した。その後、新たに工場の一角をある企業へ貸し、ご自身は工場一角で人材派遣業をスタート、それが順調に成長して現在に至っている。
わたし(小出朝生)は、20代前半のころ、最盛期の本地陶業でアルバイトをしていたことがある。そのときは勇夫氏も正男子氏もお元気で、デザイナーの村上専務にもお会いしたことがある。出荷場で一緒に働いていた人たちはみんな優しかった。出荷作業を担っていた小原さん、どこかで元気でいるのかな…。今回、由美子さんのお話を聞きながら、とても懐かしく思い出した。
【インタビュー・文 小出朝生】
ページのトップへ戻る