
第11回 水野 孝一さん
株式会社東原製陶 元 代表取締役社長
現 相談役
昭和8年、名古屋市に生まれる。
昭和30年、大学卒業後美濃窯業株式会社に入社、陶磁器の知識を習得、
昭和34年、合資会社東原製陶所(現株式会社東原製陶)に女婿として入社、
社長引退後の現在も、相談役として現社長を支え続けている
――― 業界に入ったきっかけを教えてください
昭和30年に大学を卒業し美濃窯業に務めました。当時はものすごい就職難で、入社試験を受けた時には、履歴書は提出してありましたが、
「筆跡が違うといかんから書いてもらう」と、再度筆で書かされまして、なんとか入社できました。
美濃窯業の4年間では多くのことを学びました。初めは陶器、陶器から耐火煉瓦、最後は築炉へ移り窯の知識もつきました。
――― 美濃窯業での経験をお聞かせください
初めは見習いですからホコリまみれの所での実習です。耐火煉瓦の工場は瑞浪と亀崎にあり、その両工場で現場作業を2年間やりました。陶器の原料の陶石をハンマーで割る作業や、トロミル(原料を粉砕する鉄のドラム)の中に玉石と一緒に原料を入れてごろごろ回して粉砕する作業、玉石との摩擦で細かくなるんです。粉砕の工程には石を臼でひく大きな機械がありまして、原料を粉砕機の中に入れると細かい微粉になりますが、当時は健康管理なんて全然ありませんでしたから、マスクをしていても一日働きますと、鼻の中が微粉で埋まってしまうわけです。そんなところで下から叩き上げられました。 最後はトンネル窯を作る設計部におりまして、パキスタンへ行き築炉しなければいけなくなりました。それと同時に名古屋で婿養子の話が決まりかけていまして、パキスタンへ行けば結婚式は挙げられない、 もの凄く難しい立場でしたが、結局会社を辞め東原製陶に入りました。
――― 東原製陶の創業は何年ですか?
大正初期、初代水野市次郎が岐阜県恵那郡陶町水上にて 陶磁器製造を営んでいました。 大正6年頃に2代目の宗一が、新妻を連れて名古屋の主税町4丁目に移住し、屋号を○宗として生地の仲売人を始め、大正12年の8月、名古屋市東区大曽根町字東原(現平安二丁目) にて東原製陶合資会社を設立、10尺×20尺×10尺の石炭窯一基で、東南アジア輸出用の丼、肉皿、スープ皿を動力ロクロで成型焼成した生地を大曽根地区の業者に販売していました。今からみると白素地なんてものではなかったですが。(笑)
――― なぜ名古屋へ出てきたのでしょうか?
「名古屋に出なければいかん」と、将来を見越して岐阜の山奥から裸一貫、飛び込んで来たわけですから、思い切ったことをしたものです。
名古屋は殆どが加工完成業者で、素地を作っているところは少なかった。当時日本陶器さん、
松村硬質さん、佐治タイルさんなどの大規模工場が存在していた時代で、個人の小さな力で、素地を名古屋でやろうと考えたことは大変なことと思います。
「こんな所で煙を出しとるか」といつまでも言われていました。
昭和30年初頭に燃料を石炭から重油に転換しノベリティ生地の焼成を初め、昭和40年近くまで焼成していましたから。陶器というのは高温で焼き、白さを出すには還元が必要ですから煙を出さないといけない、煙を出さないと酸化されて素地が茶色になってしまう。あの辺りでは一番初めの工場でしたから、近所から洗濯物が汚れて迷惑だってよく言われました。
昭和19年頃、戦災にも合わず、これからという時に企業整備で休業、敗戦後再操業して間もない昭和26年に宗一が死去、3代目準一が代表社長に就任し、白生地製造を再開、焼成窯一基を増築しました。美濃窯業に勤めていた頃、東原製陶の煙突は大曽根駅から丸見えでしたから、名古屋に汽車で帰って来るたび、その煙突を眺めていたのですが、まさか、私がそこに婿入りするとは夢にも思っていませんでした。
――― いつ頃一貫メーカーになられたのでしょうか?
上絵窯を借りて一人でやっているような小さな工場があり、そういう方たちを雇い入れまして、上絵付用電気窯二基を設け、生地から完成梱包までの一貫業者となりました。私が入る2、3年前のことです。
――― 東原製陶に入られた頃の様子はどのようでしたか?
名古屋港からの輸出は陶磁器がトップの座を占め、北米を主体に東南アジア、ヨーロッパ、中近東へと共産圏を除き、全世界に及んでいました。中旬と月末の毎月二回の船積時、名古屋港での通関が間に合わず、神戸港や横浜港へ船を追いかけ船積するような日々が続いていました。
一方、義父は将来の労働力確保を見越して、春日井市大泉寺に工場用地を取得、大泉寺地区工場誘致第一号として、社宅付の工場を俊工、従業員30名で白生地工場をスタートさせました。
30年後半になると人手不足から、九州、四国から中卒の若手層や、炭鉱離職者を雇い入れました。
最盛期の昭和37年頃、両工場で従業員60数名を確保していましたが、労働運動が盛んな時期で愛労評のシンパが組合結成を企てていました。 事前にこれを察知して事なきを得ましたが、この時労働組合が出来ていたならば今日の東原製陶はなかったと思います。 | ![]() | |
昭和37年4月8日 於彦根港 社員旅行 |
人では苦労しました。機械的なものは全然ない商売、あくまで人の手による、人的なものを資源として供給しなければ仕事がなりたたない商売でしたから。「20年も経つと人がいなくなるから、やっていけないようになる」と、義父は言っていました。「私が生きている限りは、なんとかこの商売を続けるから安心して来てくれ」と言われて来たんですけど。(笑)
――― お義父様はどんな方でしたか?
3代目の準一は商売が嫌いでも酒は飲む(笑)。商売はほったらかしでしたから、私は現場の仕事にかかりっきりになっていました。鋳込みから、窯焚き、ありとあらゆる仕事をやりながら、商売、外交面、注文取り、荷造り、すべてやっていました。
祖父の薫陶を受け、先をみることは得意でしたが、外交面が苦手な人で、組合(名古屋輸出陶磁器協同組合)に出て行くことなど殆どなかったですから、婿入りした当初から私が代理で行かされました。ですから保一(瀬栄陶器水野保一社長)さんの時代から知っていますよ。それから、斎藤さん、鈴木さん、大橋さん、水野さんと歴代の理事長
(*1)を知っています。大御所ばかりで私は会議室で小さくなっていました。主流といえばディナーで、うちが扱っていたノベリティは名古屋では少なかったですから。パール陶器さん、上田工業さんのように大きくなられたところはありますが、
私のところは非常に中途半端で素地造りから始め、上絵付けは完全に乗り遅れました。やはり「ノベリティは上絵付けをやらないかん」と初めは模倣でした。ノベリティそのものが模倣でしたね。
*1 名古屋輸出陶磁器協同組合 理事長
昭和28年〜44年 斎藤常太郎(名古屋商会)
昭和44年〜48年 鈴木彦次郎(鈴木商店)
昭和48年〜54年 大橋菊義(大橋陶器)
昭和54年〜56年 水野清(矢田陶器)
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[ENESCO「Precious Moments」シリーズのカタログ] | ||
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[Hallmark「Holly Hobby」シリーズ オーストラリア メルボルンの売り場] |
――― どのようなノベリティを作っていましたか?
アメリカHallmark社の「Holly Hobby」
シリーズを契機にノベリティにメッセージを絵付けした商品を大量受注しました。売り場の視察にと昭和48年初めて渡米し、ケンタッキー州コービン(Corbin)のwarehouseを見学した際、本場のローストチキンをご馳走になり、一匹丸ごと出てきたのに驚いたことを思い出します。
ENESCOの「Precious
Moments」シリーズもこの種の商品です。昭和50年代ニクソンショック、オイルショクで円高が進み、加えて途上国の追い上げ、キューバ、イランの輸入禁止、英国の輸入規制、鉛、カドミなどの有害物質の規制などで徐々に注文が減少していた頃でしたので、この注文は危機を助けてくれました。
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[ROBALのカタログ] |
――― ユニークなものを作っていましたね。
AIK扱いの「ROBAL」の照明器具部品は、後から金具を填めるものですから、寸法的にものすごくシビアなんです。焼きあがった製品のミリまできちんと管理しないといけません。コンマ5ミリ違うと入らなくなるのですから。管理するには型からやらないといけないわけ。ノギスで測り、規定の収縮率で計算して図面を描き、型屋に頼んで原型を作る。型屋なんてものはいい加減ですから、その寸法チェックまでしなければいけない。この時にトンネル窯の必要性に迫られました。
ランプベース、ランプシェードにしても元々はガラスであったものを「陶器で」
と考えたこのインポーターは大成功しまして、あっという間に儲けて、
ニューヨークのハドソンリバーでマンハッタンの摩天楼がよく見える位置にレジャーボートを買って、そこに係留していましたよ。
――― そのほか印象に残っていることはありますか?
昭和50年頃、名古屋には商社が200軒、メーカーが100軒くらいありました。坂上町から橦木町の商社とはほとんど取引していました。ノベリティは種類が多いものですから物凄く注文が細かく大変でしたが、忙し過ぎて疲れることも忘れていました。だんだん商売がおもしろくなってきましてね。円高がやってくる前までは年間80社と取引をしていました。既に台湾などの追い上げがあり、品質向上を図るため、本社工場に上絵付トンネル窯、春日井工場に生地焼用トンネル窯を導入しましたが、設備資金の借入れに、当時の銀行は「土地」などは担保にしませんでした。「中日スタジアム」の株券を差入れしたのを覚えています。
平成に入り、中国の台頭と重なる円高で春日井工場を閉鎖し規模は縮小しましたが、お蔭様で今まで丈夫でやってこられました。現在は長男博之が「TOHARA」を引き継ぎ今も残っていますから、ありがたかったと思っています。みなさんのお陰です。