業界人のお話

第13回 河合 勇さん
上絵付職人
昭和8年3月 名古屋生まれ
名古屋陶磁器上絵付技術コンクール
(名古屋輸出陶磁器協同組合 主催)
昭和56年 名古屋市長賞 受賞
昭和58年 愛知県知事賞 受賞
――― この業界に入ったきっかけは? 空襲で家が焼けてしまい、矢田の借家に住んでいました。借家といっても大きな家だったから、 2階を間貸ししてまして、そこのお姉さんが松風へ行っていたわけ。家から松風まで歩いて5分だったから。疎開先の田舎から帰ってきて、何やろうなって考えていたら、「勇ちゃん、絵好きだろう?一回おいでよ」って誘われてついていったのがスタート 。高等小学校を卒業した年、14歳だったな。 最初は一番簡単な、元判を押した後の小さいところに赤や黄色を差込っていって合わせ判で押していた。 だんだん上手になると、男だから力があるから、元判を押すようになった。 ――― 元判、合わせ判とはどのようなものですか?
――― ハンコを合わせて押すのも難しそうですね? 合わせ判も難しい。1ミリずれたら困るから。上のルーラー判っていうものが縮んだり伸びたりする。冬になると縮むだろう。縮まないように水の中に入れる。水は急には冷えないからね。鍋の中に皿をひいてルーラー判を置いて帰って、あくる日、ちょっと固まっているとあぶって伸ばしてその辺りが難しい。それはプロの技だわ。そうするとちゃんと合うでね。 ――― 松風ではどのくらい働いていましたか? ハンコを押すだけの仕事では満足できず4ヶ月で辞めた。辞めて見習いになったが、見習いは見習いで若いでしょう、自転車で運搬ばっかりで…
――― どうして絵描きに戻ったのですか? 松風でバラを描いていて三和陶業社にスカウトされていった人に道で偶然会って、月給500円と話したら、「そんな安いことでどうする?」って、すぐにスカウトしてくれた。すると月1200円か1300円になった。三和陶業社は佐地さん、曽根さん、三田さんが作った会社でした。親方と二人で色々な仕事をしながら技を覚えた。そこにいた一年半が、わしの基本のような気がします。 ――― その後、中部陶器さんへ移られたのですか? 三和陶業社にいた人が中部陶器にいって、わしも呼ばれた。スカウトばっかりだった。その都度、給料が上がるから、中部陶器に変わったときは残業もあるし月7千円くらいになった。その頃の公務員のベースが2,3千円だったから、多少は生意気にもなったけど、仕事は一生懸命やった。仕事とお金には硬かった。わしだけいい給料をとっていたから、中学出て後から入ってきた同じ年の子が文句言ってくるわね。そうしたら、その時の常務がこんなことを言った、「勇くんはよそでやってきて、ここですぐに間に合った。お前らは絵具擦りから始まっているから、一緒にはならんぞ!」と、うれしかったね。そうして中部陶器が仕事を廃めるまで13年働いた。 ――― 中部陶器ではどんなものを作っていましたか? ミニチュアの高級品を売っていた。小さなティーセットに金盛りしたり、真ん中にバラを描いたり、金の唐草を描いたり、わしは全部やっていたよ。最後には優勝カップみたいな大きなものに蒔きをやって、金盛して、中には転写を貼った立派なものがあったよ。 ――― 中部陶器を辞めた後はどうされましたか? 番頭だった長船孝男さんから一緒に仕事を始めようとスカウトされた。長船さんがリヤカーを引っ張って下請けを回って油絵を描かせて、わしは金を専門に20数年もやっていたよ。最初は金を手描きしていたが、採算が合わなくなると、金判を押すようになった。その当時、自分は恥とった。ハンドペインティングといいながら、描く代わりに金判を押してごまかしていると思っていたね。今考えると大した技術だよ。判できれいに合わせて押すのは難しい。転写には敵わないけどハンコで押したものは味がある。昔はそれしかないから、そればっかりやっていたが、今では逆に珍しいわね。 ――― 長船さんではどんな商品を扱っていましたか? 食器はほとんどない。花瓶ばっかり。おもしろいものでは墨抜きっていうのがあった。墨で描いてラスターを塗って焼くと墨のところだけぱっと抜けるでしょう。きれいで驚くよ。採算が合わなくなって止めたけど。
――― 上絵付技術コンクールに毎年出品していましたね。 落選を何度もして、いつかは通らないかんってそういう気持ちがあった。負けん気が強いからね。 これらはものすごく時間が掛かっている。これだけのもの描けって言われたら1ヶ月では描けない。 その頃は夜だけで2ヶ月くらいかけて描いた。作品を出品するともう来年のことを考えていたからな。 黒にしたり赤にしたり。
――― 苦労して研究されていましたね 楽しみながら苦労してるよ。振り返ると、みんなにかわいがられて、助けられて生きてきた。わしの技術を生かす道はなくなったが、最後は筆を持って終わりたいと思っている。今まで元気で、まだ将来も元気でいるつもりだから、いつかは何かの形で筆を持ちたい。できることなら、技術を伝承していきたいな。
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