
第16回 森 幸雄さん
元 森健陶器株式会社 代表取締役
昭和5年生まれ
名古屋市北区在住
――― 森健陶器の創業はいつですか?
うちに絵を着ける作業場がないから、幾度も職人さんの所まで往復しました。大半が吹き付けを使うものだから、たくさん詰めないでしょう。リヤカーの時代は良かったけど、トラックに上手にロープをかけないと崩れちゃってね。あまり多い時はうちまで来てもらって、吹きだけやってもらったり、ロクロ仕上げをやってもらったこともあった。
――― スーベニアが多かったと聞きましたが。 戦後すぐは直接の輸出は出来なかったからスーベニアをやっていました。東は立川、横須賀、横浜、西は呉まで。一部には九州まで行っていた人もいたね。九谷風山水、金山水や金の代わりにプラチナを使った銀山水、スーベニアには必ず富士を入れていました。
スーベニアの取引は現金でした。集金は月に一回、西も東も大抵私が行っていたね。自分で木で作ったトランクに大きい百円札を入れて。その頃は百円札しかなかったでしょう。かなり大きい箱だったよ。往復夜行列車で行っていたから、トランクに腰掛けて寝るんです。親父は一度取られたらしんですが、私は取られなかった。お金を持っているはずのない子どものほうが良かったのかもしれませんね。今頃になって、二十歳前の坊によく現金をくれたなって思うよ。 スーベニア時代には、進駐軍の人たちがノリタケなら買うが、その他は買わないから、ノリタケによく似た裏印を押した同業者がいたよ。良心的なところは「ノリタキ」とかと一字変えていたね。一斉に挙げられたことがあったんです。うちも森健陶器で「MC」とノリタケに似せて作った記憶があるけど、親父はよう使わなかったな。「大日本」や「九谷」などの裏印で売れた時代があった。後半はバイヤー指定の裏印を使ったね。 「九谷」の裏印では本場からクレームが来たことがあったね。うちは描き絵専門にやっていたから、職人さんは大半が石川県の寺井、九谷出身の人でした。九谷の人だから、「九谷」の裏印を押すことに、当たり前のところもあって、違和感がないんです。ところが、石川県からクレームが出たから、一時、「日本製九谷」、「尾張製九谷」と押したこともあったよ。
――― 貿易が再開したのはいつですか? 昭和26、27年だったかな。昔は物がなかったでしょう。どこのメーカーも作れば売れるという時代でした。 仕事はヨーロッパ専門で、商社はヨーロッパ向けではトップのウインクレル商会です。 一時ウインクレルの商売が70%あった。各社で競争してウインクレルの値段は厳しかったけど、 「ヨーロッパをやっていたらウインクレルと取引しないと一人前じゃない」と言われていてね。 ウインクレルの他には二明商会があって、そこも良い物を出していたね。 ヨーロッパでもドイツが大半で、それからフランス、イタリアは値段がきつかったから少なかったね。 終わり頃はポルトガル、七福神は大抵ポルトガル。ダマシンはヨーロッパ以外にインドにも出た時代があって、インド商人は商売人だよ。大阪の商社の人がインド商人を連れてきた時、値段を言う前から 「高い」って言ってくるから怒れちゃった。日本語は「高い」「まけろ」しか知らなくて笑えました。中近東はラスターものが出ました。南米向けに半磁器ものを丸栄蜂谷商会からもらったこともありました。 ――― お仕事を辞められたのはいつ頃ですか? 円高の後、平成になってからです。店を閉めることになったので、注文はなかったが、退職金の代わりといいますか、絵付け職人さんたちへの感謝の気持ちもあって 、絵を付けてもらい商品を残しました。それらは、もう二度と作ることのできない名古屋絵付けの財産になったと思います。 現在は名古屋陶磁器会館で展示即売しています。海外の人たちに喜ばれた芸者透かし入りのカップに、富士山水、桜美人、紅葉小鳥などの絵柄は、国内では珍しいものばかりです。 このような商品が名古屋で絵付けされ輸出されていたということを、皆様の記憶に留めてもらうことができ、うれしく思います。
森幸雄様は平成21年10月ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 |