HOME>業界人のお話>第17回 林 幹雄 H20.3.28
業界人のお話


第17回 林 幹雄さん

日展会員 彫刻家
(元)瀬栄陶器株式会社 原型師









現在、名古屋陶磁器会館にて安置している 
水野保一翁胸像の製作者



原型師となる
〜サンプルの箱を開けるのが楽しみで〜

――― 瀬栄陶器に入られたきっかけは?
 守山に瀬栄陶器の製造工場ができた時から、父親が勤めていたものですから、戦時中ということもあり、「近いでここへ入れ」って父親に言われたのがきっかけです。あの当時は国民学校といって、6年の初等科と2年の高等科がありました。私は初等科を卒業してすぐ就職し、高等の2年間は勤めながら通ったんです。会社に認めてもらい、週に何日か通っていました。

―――  初めから原型のお仕事をされたのですか?
 
  金属の代用品として製造していた缶詰、手榴弾の石膏型を作っていましたが、8月の終戦により缶詰の生産だけになりました。近くに会社の買入れた雑木林を開耕し、サツマイモを作る仕事もありました。12月の給料袋がみつかり、明細を見ると改めて昔日の感があります。
[昭和20年12月の給料明細]

――― 原型師になられたきっかけは?
 貿易が再開したのは昭和23年頃からでした。アメリカのアーダルトという兄弟のバイヤーの注文で、ノベルティの製造が始まりました。 バイヤーがノベルティのサンプルを持ってくるようになったので、社長から「原型をやれ」と支持されたのがきっかけでした。その時は瀬戸からみえた人が一人で原型作りをしていました。その人に教わりながら勉強し始めたんです。
[アーダルトの当時の製品とラベル]

 バイヤーがヨーロッパから、古い人形をカートンにいっぱい、2年に一回会社に持ってきたんです。どんな人形が出てくるか、箱を開けるのが大変楽しみでね。あの当時は不思議に思っていたのですが、ほとんどの人形の指が折れていたんです。日本に持ってくる時に、商品として持ってくると関税がかかるので、サンプルとして持ってきたことを証明するために、わざと折っていたんだそうです。

 そのサンプルを大量生産用に原型から作り直すのが私の仕事で、省略できるところは省略する。その当時は、丸窯(単窯)でしてね、丸いえんごろに入れるのに、3つ入るのと2つしか入らないのでは5割違ってくるわけです。窯に入れるところまできて、どうしても3つ入らず、また作り直しということもありました。作る側からすると、人情としてなるべく大きく作りたいんです。思い切ってカットすることができなくて、随分叱られたことがあります。

 ――― 人形の製造はいつ頃まで続きましたか?
 人形製造のピークが過ぎた昭和26,27年頃から、洋食器を作るようになりました。その間に、アメリカの駐留軍の人たち向けにスーベニアも随分作らせてもらいました。

 当時、良くも悪くも、「瀬栄に持っていけば、できないものはない」と言われていました。随分、私も開発させてもらいました。中国製をサンプルにした観音像のランプ、三角透しのランプシェード、蛍透しの食器など。 三角透しも、生産性に合うようにということで苦労したんです。曲線になっているので、一段ごとに三角形の大きさが違ってくるわけ。一つずつ切り抜くのではとても採算が合わない。高さ30cm胴径23位になると透しの数は350〜400になり、1日2個位が限度でしたね。提灯張りのように内型を固定させポンスで打ち抜く方法により生産が飛躍的に伸びました。  
[三角透しのランプシェード(中奥)
 蛍透しのプレート(左)]
[当時製造していたノベルティ]


社長の思い出
〜デスマスクを作る〜

――― 瀬栄さんはどのような会社でしたか?
 戦前には女流陶彫家月谷初子氏、木彫家後藤白童氏が共に守山工場に在籍していました。月谷氏は自由奔放に生きた方で名古屋に窯を築いて多くの作品を作られました。作品は名古屋近辺の人たちに収集されています。後藤氏は難聴の進行があったのですが、関東大震災に遭い治療できないまま、聞こえなくなり以後そのハンディーと戦いながら木彫への道を進まれました。守山工場での原型作り、研究所での作品作りと何年かご一緒させていただきました。

  瀬栄のクラフトデザイン部には、現役でご活躍の方々、三輪雅章氏、森正美氏、江崎勉氏、安達章氏、中でも、食器のデザインで国際的にご活躍されてみえる栄木正敏氏もみえました。人間国宝加藤士師萌氏の息子さんの加藤達美氏は当時武蔵野美術大学の教授で卒業生等(三輪氏、江崎氏、栄木氏)を送り込まれた関係で、東京から年に何回か瀬栄に教えにきていたんです。瀬栄には錚々たるメンバーがみえたのは確かです。

――― 水野保一社長の思い出をお聞かせください。
 ワンマン社長でした。守山工場には毎日来ていましたから、私のいた原型作りの部屋にも、たまに来られて指示されるのですが、声は大きいし、一気に言われるものだから、100%判断できない時があるんですよね。それを、「どういうことでしたか?」って聞けないんです。聞いたら、「お前、何を聞いているんだ」と雷が落ちるのは分かっていましたから、その場は分かりましたと済まして、後で前後の話を繋ぎ合わせて、こういう事をおっしゃったのかなって考えましたね。  
 それでも、社長についていけたのは、がんがん言う反面、非常に人間的な面があったからなんです。それが社長の逆の魅力でもありました。
 伊勢湾台風の時も家まで見舞いに来てくれたんですから。自分のところも被害にあっているというのに、一従業員の家に来てくれるという人情深い人でした。私が社長の紹介で、今の林家に養子に入ったということも、いくらか加味できるとは思いますが。社長が知り合いの貴金属商の人から、一人住まいのおばあさんが養子を欲しがっているという話を聞いてきて、父親に、「お前のとこ、子どもが多いから、一人あそこに養子に出せ」って言ってきたんです。それこそ鶴の一声で、父親も社長のことは分かっていましたから、気持ちの整理を付ける間もなく話がまとまりました。

 中でも一番の思い出は社長のデスマスクを作ったことです。生涯に二度とない経験に感慨深いものがあります。亡くなられた日に、ご遺族の方から石膏を準備して自宅に来るように呼ばれ、デスマスクを作るように言われました。突然の事でしたが何とか石膏型を取らせていただきました。その時は緊張の余り、故人はじめご遺族の方々に失礼や不遜の態度があったのではないかと今でも気掛かりでなりません。お骨を砕いてボーンチャイナの仏像を作られたのですが、それも故人のご遺言だったようです。

――― 胸像制作の思い出をお聞かせください。
 社長の功績を称え胸像を作ることになりまして、制作に取りかかりましたが多くの苦労がありました。大小多くの写真は正面が殆で、まして後ろからのものはありません。またご遺族や重役に見ていただくのですが、社長に接してこられた印象が十人十色でそれぞれの意見を聞いていたら作品になりません。結局自分なりの印象で作りました。
[昭和39年5月31日、胸像除幕式参列の幹部および代理店関係者(瀬栄陶器千種工場)]
[昭和58年5月26日、瀬栄陶器より水野保一翁胸像が寄贈されたのを機に井元為三郎翁と合わせて両巨人を偲ぶ会(名古屋陶磁器会館)]


彫刻との出会い
〜ジレンマを抱く〜


――― 彫刻の世界に入られたきっかけは?
 昭和28、9年から研究所に通うようになりました。彫刻家の個人のアトリエです。その先生の仲間で作っていた彫刻クラブの発表会を見に行ったのがきっかでした。形を作ることには興味をもっていましたので、デパートで展覧会をやっていると聞いて見に言ったんです。入り口に「MC彫塑家集団友の会 会員を募集」という看板があったので、その場で入会したところ、先生が「アトリエに勉強に来ないか」って誘ってくださったんです。
 その頃は忙しくて、1日と15日の月2回しか休みがなかったんです。他の人は残業しているのに、私だけ5時の終業と同時に研究所へ通うようになりました。「要領のいいやつだ」と陰口をいう者もいましたが、社長の許可をもらっていましたから、堂々と行くことができました。
 守山から研究所のあった末盛まで、自転車で行く途中で20円の素うどんを食べて、6時から9時まで彫刻を習いました。 同時に入った二人と共に、最初は「首を作れ」ということで、私は簡単に作ってしまいました。会社で人形を作っていましたから、それらしく作るのは早いのです。その時先生から「これは彫刻じゃない」と言われてしまいました。会社では細かい人形を作っていて、研究所では人形的なものはだめだと言われて、以来ジレンマを感じています。
 それから2年くらいして、昭和30年の日展に初出品して入選しました。一度だけ落選を経験しましたが、もう50数年出展し続けています。

 
――― 今振り返って思うことをお聞かせください。
   
 守山の工場に入社したことで、いろんな勉強をさせてもらったと言えます。別な方向へ進んでいたら彫刻はやっていないでしょう。幸せに思うのは彫刻を通して、たくさんの人と知り会い、お付き合いさせていただいていること、そして、特選、審査員、会員へ進むことができたことです。
 36回日展に出展した作品「祈り(2)」が総理大臣官邸に展示されるという機会にも恵まれ、非常に名誉なことと思っています。彫刻と出会えた人生に感謝しています。
[祈り(2)]