HOME>業界人のお話>第18回 三輪 延子 H20.5.22
業界人のお話


第18回 三輪 延子さん

フリーライター 
(著者に「おばさんモンゴルへ行く」あり)

(元)瀬栄合資会社・社員長谷川竹蔵長女


*長谷川竹蔵氏
               
大正5年 瀬栄合資会社入社
               水野保一社長の秘書役を務める
     「茶わんや水保」の水野保一伝記編纂委員会メンバー

加藤鎮三郎と水野保一の出会い

 セーエーの前身は明治29年瀬戸初の法人組織として設立された瀬栄合資会社に遡ります。支配人としてその経営に携わっていた加藤鎮三郎が叔父に当たる関係で、両親を早く亡くした父は、小学校を出るや(大正5年)この(旧)瀬栄に入社いたしました。一方、新進気鋭の陶磁器商として頭角を現しつつあった水野保一氏(旧水野商店・店主)と鎮三郎との出会いが、その後の瀬栄の運命を大きく変えることになります。保一氏の類い稀な商才を見抜き、その将来に賭けた鎮三郎が長女・はるを彼の元に嫁がせ、これがステップとなって(大正8年)両社の合併が実現したのです。新生成った瀬栄合資会社の本拠地が東区・東芳野町でした。

電車ミチの家
 
 会社の合併後、父の勤務地も瀬戸から名古屋に移り、やがて昭和8年父は結婚。私が物心ついた頃、我が家は芳野町本社の敷地内にある社宅(かつての水野商店本社)に住んでおりました。敷地内といっても芳野町通りから見れば一番南端に当たりそこはもう電車通りで、家の前を赤、黄、緑のチンチン電車がガッタンゴットンと走っておりました。 その頃のセーエーの敷地はすでに二千坪と広く、工場などの建物は東芳野町側に集中していましたから、我が家から、正門付近の人や物の出入りや工場の様子などは全くわかりませんでした。業界の口火を切って電気絵付け窯を導入した新鋭工場があったと聞きますが、幼い女の子であった私が興味を抱く対象でも無く、それが敷地内のどのあたりにあったのか遂に知らず終いでした。 ただ、裏の空き地の先に盆栽の棚で囲った本社事務所の建物が垣間見え、いつも何人かの人影が動き、毎晩遅くまで灯りがついていたことを思い出します。そこが当時の父の職場で、通勤時間ゼロ。父は「会社に行く」ことを「ミセに行く」といって、身軽な感じで通勤しておりました。  

転写作業の夫婦と通り抜け出来た倉庫
 水野商店時代荷造り場などに使われていたものか、家の裏口を出たところに、屋根つきの倉庫部屋が残っており、私達が住んでからもしばらくは小規模な絵付作業場として利用されていたように思います。床に座って1日中転写の作業をしている夫婦の姿がありました。写し絵の要領で茶碗にマンガの模様が綺麗に貼り付けられていくのが面白くていつまでもしゃがんで眺めていたことを思い出します。 裏の空き地から芳野町通りまで通り抜けが出来るでっかい倉庫建屋もありました。中に入ると両側に夥しい数の木箱群が積まれ、その一つ一つに瀬栄の「瀬」の字がくっきり焼印されていたことを覚えています。真ん中に人が歩ける幅の通路が作られており、昼間も薄暗くトンネルに入ったような気分、ここを抜けるとあっという間に芳野町通りに出ることが出来ました。学校(セーエーの目と鼻の先にあった第一師範付属小学校)帰りの私を見つけた父が一緒にこの中を歩いて家の裏口まで送ってくれたことも何回かありました。 我が家が電車ミチの家に住んだのは大東亜戦争が始まった年まで、その後は陶磁器会館近くの東主税町に引っ越しました。


社長はタイショウ

 合併以後、鎮三郎という後ろ盾を得て、水を得た魚のごとく辣腕を発揮し続けた水野社長ですが、同時にその猛将ぶりもますます冴えわたり、「水保に叱られたという逸話だけ集めてもゆうに一冊の本になる」(水野保一伝記編纂委員会「茶わんや水保」より)といわれるほど、陶磁器界の伝説となって今に伝わっています。業界関係者にさえ天皇、法王、独裁者、ヒットラーなどと恐れられた社長ですから、"身内"である本社内の空気は如何ばかりのものであったか、想像するに余りあります。社長のことを全員が大将と呼び、大将の一言ですべて即断即決。鎮三郎の長男・鎮雄氏が経理担当で一応副社長格でしたがあとは役職など一切置かぬワンマン体制だったと聞いています。社長席からは常に怒号が鳴り響き、叱責のタマが雨あられと飛んでいたことでしょう。


社長の一番身近で使ってもらう

 そんな中父はいつの頃からか秘書役を務めるに至り、これは社長の存命中続きました。学歴も無く非力な自分がそんな身近なところで役立てることを父は限りなく幸せに思っていたと思います。タマが最も激しく飛んでくる場所にいたにも拘らず、家で愚痴も言わずそれほど参っている様子もありませんでした。父はいわゆるモーレツ人間ではありませんでしたが、ぐずぐずしているのが嫌いな性分でまめに動きまわる人でした。戦前すでに車の運転を覚えたのも、当時一般には未知の領域であった車のスピードというものを先取りしようとした表われかと思われ、その辺が人一倍せっかちだった社長と共通する部分だったのかも知れません。


もうひとつのエピソード

 社長の"カミナリ"は身内であろうと親戚であろうと相手かまわず落とされたといいます。中でも夕飯のおかずが気に入らないと「こんなもの食えるかッ」と一喝、即座にお膳をひっくり返すこともしばしばだったとか。これにはさすがの父も「あれでは奥さんや娘さんたちがあまりに気の毒だ」と同情して話しておりました。 ただこのエピソードには聞き落としてはならない"続編"がありました。その後社長は自分の舌に合う料理を作って貰うべく、折にふれ奥さん同伴で一流の料理屋を食してまわり、その結果奥さんの料理の腕はプロはだしのレベルに達せられた、というものです。この話は私の母などを大いに感動させ、「やっぱり大物社長さんのやられることは違う。それに従っていかれたはるさんも賢夫人の鏡だ」としきりに褒めておりました。 これが水保式フォローというものだったのでしょうか。私の父もこんなかたちで社長の大きな温情を知らぬうちに貰っていたのかもしれません。
 
仲良きことは美しきかな
 瀬栄の製品は、戦前の場合はアメリカやヨーロッパ向けの輸出品が中心で国内では一般の目に触れることが少ないものでした。その点戦後は国内販売が主流となり、社長のアイデアからなる「和風洋陶路線」に乗った諸製品は日本の消費者の目にも親しみ易いものとなりました。 中でも「青磁のディナーセット」や「武者小路実篤の絵皿」などは三越百貨店を通じてマスセールスされ、すごい売れ行きだったといいます。数字のことは知りませんが、当時のテレビドラマの居間や玄関の壁に「仲良きことは美しきかな」というあの絵皿がしょっちゅう背景の一部となって登場していたことを思うと、並の売れ行きではなかったと思います。ずっと後に私が住んだ東京などでは、セーエーといっても知らない人がほとんどでしたが、あの絵皿のことを話せば「ああ、かぼちゃや茄子の絵が描いてある、あれをつくっている会社ね」と判って貰えたものです。

 日本の輸出陶磁器の全盛時代に、そのメッカといわれる赤塚、芳野町界隈に暮らしたことは私にとって幸せだったと思います。最初に住んでいた電車ミチの家はその後セーエービルと変わり、今はそれも無くなり、瀬栄陶器と書かれた看板だけが建っています。 車でその前を通過するたび「つわものどもが夢の跡」といった感慨を禁じ得ない私です。(三輪延子)
[赤塚交差点からセーエービルを望む] [瀬栄陶器の看板]