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業界人のお話


第19回 近藤 進さん


元 日本陶磁器輸出組合 専務理事

現 日本陶磁器産業振興協会 事務局長


 今回の語り部、近藤進さんは昭和30年(1955)日本陶磁器輸出組合に入局。
初代理事長永井精一郎氏、加藤隆一氏、井元啓太氏、鈴木啓志氏と歴代の理事長に仕え、同組合解散後は、日本陶磁器産業振興協会事務局長として、現在も日本の陶磁器業界を支え続けておられる方です。輸出陶磁器業界の豊富な経験談を語っていただきました。



日本陶磁器輸出組合: 昭和27年、輸出取引法の施行により設立以来、輸出取引秩序維持対策、輸入制限対策、外国業界との会談、交流及び視察団派遣、海上運賃対策、米国における陶磁製食器溶出鉛問題対策、意匠問題対策、国際通貨問題対策等の事業活動を推進し、平成11年の解散とともに約47年間の歴史を閉じる


就職したころ
人使いの荒いところだと思いました

就職―――業界に没頭できました
  私の卒業した年は就職難で、名大(名古屋大学)にのみ求人があり、8人受けたところ、私ひとりだけが選ばれましてね。
  輸出産業は花形でしたから、三井物産、三菱商事、伊藤忠、豊田通商など、大手の総合商社までみな組合員になっていました。中部では陶磁器しか扱うものがないというような時代でしたね。
  中学3年から大学卒業まで社会科学研究会に入り、社会を斜めに見ていましたが、この業界に入って、 夜遅くまで懸命に働く中小企業の人たちのバイタリティーのあること、学生時代のエネルギーよりずっと大きなエネルギーが動いていることに感銘を受け、すぐに業界の仕事に没入できました。

――― 事務所は名古屋陶磁器会館にありました
 

 昭和33年に日本陶磁器センターに移るまで組合の事務所は陶磁器会館にありました。会館は昔と大して変わりはないですね。今の展示室に組合の事務所が入っていました。一番隅に囲いがあって、そこが専務室になっておりました。真ん中にはだるまストーブがあって、コークスを焚いていましたから火力が強くて、すぐそばの私の席は真冬でも暑かったですね。今でもその暑さは覚えています。この部屋(会議室)には卓球台が置かれており、向かいの部屋(第二展示室)には交通安全協会が入っていました。

―――入ったはなから非常に難しい仕事を任され
 就職した年は組合設立後2年で、制度的にまだ整っていないものですから、入ったはなから非常に難しい仕事を任されました。例えば、入って数ヶ月で、旧藤久葵荘(東区葵)で外国人との会議があったのですが、その議事録を書くようにと言われて苦戦しましたね。
  その頃、硬質陶器部会・ディナーウエア部会といった品種別部会、北米部会・欧州部会などの地域別部会が頻繁に行われ、その議事録を書かされ、ひどい時は「聞いた通りに書けばよいというものではない」と赤字で全文直されてしまい悩みましたね。過去の議事録(持出し不可)を持ち帰って、いろいろ調べて研究しました。苦労はしましたが訓練を受けてよかったと思っています。

ペルー日本製陶磁器展示会―――失敗したら辞めるつもりでした
 苦労した極めつけが、2年目にペルー展示会(昭和32年6月25日〜8月9日)の責任を持たされた時でした。入った年の夏から計画があり、船積みが翌年の12月28日、「八幡丸」に乗せ出帆しました。展示会場はリマ市のBANCO CONTINENTAL、コンチネンタル銀行のロビーでした。
 日本製の陶磁器を展示し需要を喚起しようという目的でした。その頃ペルー、アルゼンチン、チリの三ヶ国は硬質陶器の主要市場でありましたが、硬質陶器ばかりでなく、高級品を見せようと、名古屋物産株式会社社長の伊藤九郎氏の発案で始まった計画でした。伊藤九郎さんは戦前の中南米組合の理事長でもあり、メーカーにも顔が広い人で、九谷や有田など日本中の製品を集めました。私が責任者になって職員7、8人で品番を貼って、写真を撮り、梱包し直して108ケース送りました。守山の使っていない倉庫を借りて、ご飯は近所の人に炊き出しを頼んで、荷造りは荷造り組合の顔だった大島さんに指導してもらって、木綿と新聞紙を使って梱包しました。
 半徹夜が続き、会館近くの菊本や代官町の角にあった「お宿のかとう」という400円くらいの安い宿屋によく泊まりました。船積み前の二日間はほとんど眠らず、徹夜で打ったインボイスは間違いだらけで、税関に持っていったら「組合がやることだから通すけど、普通だったら通らないですよ。」と言われました。
 貿易実務も経験なかったし、貿易入門の本を読むことから始めた仕事ですから、その時輸出組合は人使い荒いところだなと思いました。失敗したら辞めるつもりでいました。道家専務の労い(?)の言葉が「たくさんタクシー代を使ったな」でしたね。伊藤九郎さんからは、「貨物船の乗務員室に乗せてもらって、荷物と一緒にペルーまで行け」といわれましたが、後片付けが大変で、行くことはできませんでした。

インドネシア向け輸出―――失敗を繰り返しながら輸出業務も経験
 インドネシアとは清算勘定(昭和29〜32年)で、クーポンを出して厳密な輸出割当を実施していました。清算勘定廃止後は賠償担保にして、日本陶磁器輸出振興株式会社(*)を設立し直接輸出を行ったのですが、為替手形も組んで、乙仲との交渉もして、木箱に入れて送る、インドネシアのややこしい名前の仕向地を板に刷ってもらうように業者に頼み、その板を木箱に貼り付けたのですが、船に乗せてから、板がパラパラと取れるのが見えて慌てましたね。そんな失敗も繰り返しながら輸出業務も経験しました。



日本陶磁器輸出振興株式会社: 昭和32年インドネシアとの清算勘定廃止により、同国向け輸出が杜絶し、それ以来、輸出組合は滞貨処理に関して生産者団体と協議を重ね、昭和34年に至り、漸く輸出再開の見通しがついたので、輸出組合と日本陶磁器工業協同組合連合会によって標記の会社を設立

混合関税(昭和36年)―――経団連の研究会で講演
 ドイツ向けには日本風の大柄な模様のものと、ウエスタンデザインのものがあって、日本風のものはたくさん輸入割当が認められていましたが、ウエスタン調のものはほんの少ししか認められていませんでした。それと同時に混合関税といって、何パーセントの関税の他にキログラム当り幾らとか決めて、どちらか高い方を適用するという従量税を付加した混合関税がありました。「先進国がこのように輸入を抑える手を使っている」ということで日本政府も注目し、日経が一面に載せたことで非常に関心を持たれ、経団連の研究会にも呼ばれて、大会社の部長クラスや通産省の課長クラスの人の前で、関東支部にいた犬飼所長と二人で混合関税について話をしたこともありました。随分講演料もよかったんですよ。経団連の研究会で陶磁器の混合関税が問題になるほど陶磁器は重要品目の一つだったのです。
 
輸出規制・総合規制――病気になり始めたことが怖かった
 昭和39年1月から始まった総合規制も大変でした。始まる前から税関からは物理的にできないと脅され、乙仲の組合には猛反対されて、通産省の服部係長と二人で税関などに説明して回った時も、「勝手に決めて、なぜ事前に知らせないのか!」と吊るし上げられました。多い時は日に800件も輸出取引承認申請書の申請があって、女の子も毎晩10時ころまで残業して、ひと月経った頃から病気になる人が出てきて、人を増やしてもらって交代制にしたり、通関の必要書類である申請書に訂正があると判を押しに布池まで戻らないといけなかったので、訂正印を押すため人を税関に派遣させてもらったりと、試行錯誤しましたが、みんなが病気になり始めたことが一番怖かったですね。

米国駐在時代(昭和43年〜49年)
アメリカで受けた恩は一生
忘れないと言われ
  
陶磁器市場の変化―――1970年を境にがらっと変わりました
 昭和43(1968)年に渡米し、帰国したのが石油ショックの翌年でした。アメリカ社会は1970年を境に激変し、陶磁器の需要もがらっと変わりました。テレビの影響で黒人は白人の裕福な生活を知り各地で暴動を起こし、ベトナム帰還兵が市民権を主張するようになり、日常生活でも昔のようにフォーマルにディナーセットを用いてお客をもてなすという生活習慣がだんだん失われていました。
 陶磁器の質は、プレミアム用品が大量に出荷された1969年が磁器のピークでした。アメリカの輸出される日本の陶磁器の7割は磁器、そして70年からストーンウェアが出始め、4、5年後にはストーンが6割、その数年後には7割までストーンの比重が高まっていきました。現在ストーンは中国から安く輸出されるので、日本からの輸出の比重は磁器が再び高くなっていますね。
 
米国鉛問題―――全米から300もの新聞記事が寄せられ
 鉛問題についてはカリフォルニアから始まった時(1989年)からのことをいう人が多いが、私が渡米した年の12月に問題が起こり、1月の上旬の有名な陶磁器の見本市であったアトランテッィク・シティショーにおいて、鉛溶出が摘発されたことが話題になりました。
 日本から名古屋貿易商会の取引先輸入業者のジョージ・ゾルタン・レフトンに会いに行くようにと連絡が入り、初めはつっけんどんに追い返されたのに、次の日に行くと、丁寧に説明してくれましてね。一日のうちに謝罪して公開し、回収するという策に切り替えたんですね。
 私はジェトロに出向し、ジェトロのニューヨーク・ジャパン・トレードセンターの中でポッタリーデビジョンとして仕事をしていたのですが、ポッタリーデビジョンの予算とは別のトレードセンターの予算が余っているから少し使ってもいいというので、新聞の記事を集めてくれるように頼んだら、全米から300もの新聞記事が寄せられました。どれも一面に毒皿だと書かれ、店員がクリスマスの柊のお皿を持った写真が大きく載っていて、それを日本に送ったら、大変だということで、検査協会の常務理事だった加藤富一さんが、その1、2年後には伊藤課長が来て、ニューヨークのFDA(食品薬事局)やワシントンのFDA本部、ニューオリンズ、シカゴ、シアトル、ロスのFDA支局まで案内しました。
 加藤富さんは用意周到でね、FDAへの質問を一語一語細かく打合せして、こちらで考えれば済むような質問まで私に聞くように頼むのです。「聞かないと、帰国後みんなから聞かれるから」って言われましてね。許容基準は7ppmでしたが、「平均はよいが、一つだけ基準を上回った場合はどうなる」、「平均が少しだけ上だったらどうする」といった具合で、相手からは「なぜこんなことを聞くんだ」って何度も言われて恥ずかしかったですよ。アメリカの人はプラグマティズムで、実際には規制基準より4〜5ppm低いところで社内基準を作ればよいではないかという考えですから。
 文化、考え方が違うんですよね。ニューヨークのFDAの人とは仲良く交流していまして、ある時MIKASAのディナーセットを戴けないかというので用意したら、奥さん宛に送って欲しいと言われるなど、ちょっと図々しいお願いもされましたね。それから、アメリカ人は人のことお節介するのが好きでね、私がタバコを吸っていると、「今のエグゼクティブはタバコを吸うもんじゃないぞ」って、お客さんまでが議論を吹っかけてくるんです。それで禁煙しました。



米国陶業使節団来訪―――相当な圧力をかけてきました
 ホテルウエアの規制は戦前から行われていましたが、戦後も復活し、昭和39年からの総合規制ではホテルウエアの輸出はしないと条文化していたのですが、昭和42年にニッコーがイロコイという会社と提携して素地をアメリカへ供給するという話があり、米国陶業使節団が実情を訴えて阻止しようと大挙押しかけてきたのです。協定を結ぶと向こうの独禁法に触れるので、表向きは実情説明のための来訪でしたが、実際は相当な圧力をかけてきました。
 その翌年から私はニューヨークに駐在していましたから、向こうでホテウエアが見つかるとニューヨークの事務所に度々シラキュースチャイナから苦情がありました。一度はカップ&ソーサーが出回っているという苦情でしたので、日本の規制は喫茶用のものは除外されているから規則違反ではないと回答して納得してもらったことがありました。また一度は、輸入業者が輸入した際の荷造りのままの写真を突きつけられ、この時は言い逃れできないので日本に連絡したことがありました。
 そのような経緯があって、岐阜県がシカゴで展示会を開催した時に、私もアテンドして、その帰り道に、シラキユースチャイナを見学したいと言うので案内したところ、シラキュースチャイナがカントリークラブのハウスでご馳走してくれて丁寧に接待してくれました。一行がワシントンへ移動するため、ケネディーエアポートに送っていくと、「ずっと果物を食べていないから、どうしても食べたい」と言うので、家内に電話して大至急持ってこさせたところ、すでに機内に乗り込んでしまった後でしたが、係りの人に頼んだら、出発しないで待つよう手配してくれたので、機内まで渡しに行ったんですよ。みんなに感謝されましてね。十数年経ってもその時のお礼を言われました。赴任を終え帰国すると、岐阜の鬼岩温泉で歓迎会をしてくれました。私が主賓で、隣に岐阜県の商工労働部長、多治見市長、瑞浪市長など宴席に並んでくれて、あれほど大歓迎されたことは初めてでしたね。アメリカで受けた恩は一生忘れないと言ってもらい、お世話のしがいがありましたね。
 

米国輸入制限問題、公聴会―――逆転されて負けてしまいました
 アメリカにおける中国品の金額の割合は一昨年が69%、去年は少し減って64%を占めています。日本が一番多かった時は1977年の66%でした。日本の陶磁器の品質は優秀でヨーロッパ製に接近していたので、本当に輸入規制が厳しかったのです。
 1971(昭和46)年のエスケープクローズ公聴会は8日間も続きました。とても長い公聴会になって、毎晩遅くまで日本業界が雇った田中弁護士と輸入業者が雇ったヘメンディンガー弁護士と対策を協議していました。アメリカ側の証人は政治家が9人、ニクソンの中西部の選挙責任者まで自ら証言に出廷し、そのせいと思われますが、形勢は優勢だと判断されていたが、結論は逆転され日本側が負けてしまい、90%ほど関税が引き上げられた項目もありました。
 今では「陶磁器が輸入制限される時代があったんですか」と驚く人もいますが、ヨーロッパ各国でも1990年頃まで輸入制限を実施していました。ドイツやスウエーデンでは日本の陶磁器だけが輸入制限の対象になっていました。


中近東視察団
イランが愛おしく思えました

 1回目の視察は昭和53年で井元啓太氏(井元産業社長)を団長とし、恒川清氏(ジャパントレーディング社長)副団長、城本玉喜氏(新東貿易社長)、藤井正義氏(親和貿易社長)、加藤芳顕氏(イルジャップトレーディングカンパニー代表者)と私の6名でした。イラン革命の前夜で、暴動が起きて、飛行機が飛ばず、朝から夕方まで飲まず食わず飛行場に足止めされた時には、井元さんがお得意の手品を披露してまわりを楽しませてくれました。水も恐くて飲めないですから、バイヤーから貰ったピスタチオだけ食べて凌ぎました。

 2回目は若手で昭和57年、村橋義雄氏(ジャパントレーディング常務取締役)を団長とし、副団長に中川徳保氏(新東貿易取締役)と加藤玲志氏(パイオニア貿易商会代表取締役)、磯部清二氏(井元産業輸出部長)、一番若手の星野貞司氏(親和貿易取締役)と私の6名です。イラン・イラクが戦争中で、通産省やジェトロからは止められたのですが、皆が行きたいっていうので、戦争保険も高いものを掛けて、両国の首都であるテヘラン、バクダットへ行きました。
 連合軍が支援していたイラクは強かった。イランのほうは必死の覚悟で、ホテルの前には武装した子どももいました。ホテルに垂れ幕があって、訳してもらったら「欲しがりません 勝つまでは」と日本の戦争中と同じような垂れ幕があったりして、また、二人の団員がそのホテルの近くで写真を撮っていたら手違いで連行されてしまったんです。そんな経験もして、テヘランからイスタンプール経由でバクダットへ入ったんですが、イランではアルコールは一切禁止されていましたから、飛行機の中でビールが出された時は周りも構わず歓声をあげて飲みましたね。
 イラクへ行ったら、戦争中なのかわからないくらい、バーでも何でもありました。新聞を読むと、イラクが攻め入られているほうなのに、バグダットでは展示会を開いて、愛知県庁からも数人来ていました。飛行場も新しく、アメリカ資本の立派なホテルが建って、何なんだろうって、苦労しているイランが愛おしく思えてきましてね。
 そんな珍しいところを視察してきたので、ジェトロの「通商弘報」にレポートが掲載されたり、ジェトロや通産省の報告会で東京まで行ったり、イランにたくさん出荷していた榊原製陶があった四日市の講演にも招かれました。行くのは大変でしたが、帰国後はモテモテでした。

今一番なやみがなく
精神衛生上とてもよい状態

―――ニュースレターを毎月発行
 現在、振興協会では、会員会社の編集委員の協力によりニュースレターを発行しており、事務局員総出の重要な仕事として手作りで紙面編集、印刷、発送まで行っていますので、私の仕事時間の多くはそれに使われています。
 組合時代には「輸出組合月報」を発行していたのですが、忙しいとどうしても後回しになってしまい何度途切れたかわからない。振興協会になって平成11年にニュースレターを発行し始めてから一度も途切れたことはないです。毎月、約50ページで手間はかかりますが、ニュースレター形式ならボリュームの融通が利きますし、一度も月を越すこともなく月末発送をしています。一部は協会のホームページ(http://www.jappi.jp/)に掲載していますので、ぜひ見てください。
 マイペースでやらせてもらっていますから、子どもの頃に戻ったように今一番悩みがなく、規則正しく、精神衛生上とてもよい状態です。お陰で長生きできそうです。輸出組合時代は責任のある仕事に追われて、心が定まらず夜も眠れないこともあり、最終電車に座り込むこともありましたね。

 業界に入って50年以上ですから、お世話になった方々のお名前を挙げるだけでも、相当な人数になります。永井理事長、道家専務理事、伊藤九郎さんから、加藤隆市理事長、井元啓太理事長を経て、輸出組合最後の鈴木啓志理事長、現在の振興協会では森会長、鈴木専務理事に至るまで、数知れない多数の方々にほんとうに細かい点までお世話になり感謝しています。

  輸出組合解散の時に鈴木理事長とともに清算人になって苦労したこと、新団体(振興協会)設立準備委員会事務局長として走り使いしたこと、その他、日英陶業会談、ドイツ・フランス等の業界との交流など、お話ししたいことはまだ山ほどありますので、またの機会がありましたらお伝えしたいと思います。