HOME>業界人のお話>第2回 松岡 正男 H16.12.8
業界人のお話


第2回 松岡 正男さん

陶磁器の上絵付けの技法の一種である
盛画(もりえ)職人


大正7年(1918)、則武町で生まれる。
祖父、父ともに、日本陶器に勤めていたが、退社。北区に移り、自宅で盛画の仕事を始める。正男さんは小学生の頃より、その手伝いをしていた。
成人して、愛知時計航空機会社に6年。召集で4年間、外地での軍隊生活を経験。
終戦後三菱電機で3年勤務したが、34歳で家業の盛画を本業とする。
昭和20年代から40年代頃は、外国向けの製品作りに追われていたというが、50年代頃から、内地向けの注文品を作り始め、今も現役の職人である。


あの時分の絵描きは
鼻息が荒かった。


――― 子どもでもできる仕事が、あるんですか?


 昔は子どもは誰でも、うちのことを手伝った。まず、絵の具擦り。粉を乳鉢で擦るんだが、ただ回すだけじゃいかん。擦り方がある。
 それから一番最初がカッパ(*)に絵の具を入れて、絞り出すこと。肉皿のほかったるようなやつにボツ(点)を打ったりスジをひく。なかなか、このスジがひけんのだわ。筆ならすーっとひけるけど、加減が難しい。しまいにここ(親指)が「たる病み」するよ(だるくなる)。それを通りこすと、痛みがなくなる。
 *油紙を三角に切って袋状にしたもの。先に「イッチン」という金具をつけて絞り袋のように使う。

――― 三菱をやめられたのは?

 工場が4時まで。それから友達を3,4人集めて仕事をやっとったら、あの時分工場に行くより、夜うちで仕事した方が銭になった。戦後すぐ、三菱は不況だったが、陶磁器は全盛時代。スーベニアでメーカーはえらく儲けたらしい。札束をミカン箱で運んでいたとも聞いた。
 だから、あの頃の絵描きは鼻息が荒かったよ。それでついつい陶器のほうへ走っちゃった。それが間違いのもと(笑)。
 自分でやるようになったら人も次々増えて、8人ほど職人を使ってたな。あの頃が一番盛りだった。常に注文がたまっていた。普通のサラリーマンではできんようなこともやったよ。いろんな経験したわ。

――― その頃、主に作っていたのは?


 食器。ティーセット21揃いとか。昔の注文は大きかったよ。500組、1000組なんて来たら半年仕事。あとからあとから注文が来たから、銭儲け主義だわ。綺麗も汚いもないんだ。とにかく絵つけて、焼いて、金にすればいい。
 職人はたたかれた。安い方、安い方に注文出すから、仕事が段々悪くなる。良心的にやる人はそう安くやらない。ワシ等は高いと言われた。
 今考えると、陶磁器がああいう銭もうけ主義に走って、金に追われて、そういうことの繰り返しで段々悪い方に行っちゃった。自分で首を絞めるようなもの。

――― 注文はどんな形で来るのですか?

 職人が見本を作るんだわ。4点か5点作ってお客さんに見て決めてもらう。なるだけお客さんが好むような図柄を考えるのも職人の仕事。ドイツ向けが多かった。イタリーは安物の大口買いという評判。ドイツは案外、上等物を買ってくれた。


スジ(線)は
呼吸していたら描けない。



 昔の職人はみんな竜を描いた。よく売れたから。「りゅうぎ」と言って、竜の顔だけは十人描いたら十人みんな違うから、顔を見れば誰が描いたかすぐわかる。手が決まるんだな。何遍描いても同じ顔しか描けない。
 ワシは盛も下絵もやる。両方やる人は少ない。下絵だけやってるものは盛のことを知らないから、やりにくいんだわ。昔はほとんど分業だったが、ワシはそれではいかんと思って、下絵も始めた。

 結局下絵がやれないと、こういう御用品(注文品)はやれんわな。筆も持つ、盛もやる、という人でないと。二重盛りが上手な人でも、スジをようひかん。やったことないで。ワシがスジだけやってやったこともある。スジは呼吸しとったら描けない。息を止めてひく。息するたびに手が動くから。
 描くこともだけど、絵の具だわ、問題は。みんな描いたことばっかり言うけど、絵の具をこれだけの(細いので1ミリ)穴から出るように溶かんならん。材料がきちっとしてないと。

 終戦後は絵の具が悪かった。よく窯から出て「めくれた」とか、色が「くさった」とか。原料が悪かったんだな。よくペケ(不良品)になった。一時はひどかったよ。絵の具だけ見たらわからんもん。窯から出して初めてわかる。
 絵の具もいろいろあって、海碧(水色)なんか、ちょっとしたことでめくれるんだわ。錆(サビ色)は案外いいが、一番難しいのはサンゴ(柿色)。「くさる」と言うんだが、かけ方が厚いと窯から出ると黄色っぽくなる。陶器の絵の具というのは、存外微妙なもんなんだわ。
 釉薬によっても、付き方が違う。盛のようなのは、ひっつきが悪いと飛ぶ。あんまり真っ白の上等の生地はいかん。ちょっと濁っているほうがよく付くんだわ。そういうことをメーカー屋さんでも知っているとこはいいけど、昔は何でもかんでも絵描きの責任にしよったもんだから、よくもめた。問屋のたちの悪いのだと、因縁つけて銭をくれない。悲しいよ、絵描きというのは。

名古屋陶磁器会館の1階ギャラリーには、
松岡さんの描いた七福神の壺、
竜を描いた小壺が展示されている。

   

自分で描いて
自分で喜んでいる。

   

 あるとき「七福神描いてよ。お客さんがほしがっとるで」と言われて、どういう格好しとるんだろうとか、図書館に行って調べたり、石川県で九谷のものを見て勉強した。毘沙門ならこう、弁天様はと、顔から表情から考えて。頭の中に入ったら、あとはいくらでも描ける。七福神専門みたいに、よくやったよ。
 これからはこういう職人はおらんな。5年や10年ではできん。その人に備わったものもあるから、何年やっても、いかん人はいかんし。

 わしは学校に行っとる時分も、絵だけは一番か二番だった。映画俳優の似顔絵をよく描いた。嵐寛寿郎、大河内伝次郎。勉強そっちのけで描いては、よく先生に怒られた。社会人になったら、金にならんのは描きたくなくなっちゃったけど(笑)
 こんなもん銭もうけ離れな、やれんよ。これやっていくらもらおうとか、そんな気持ちがあったらできん。シロートでポンコツだけど、気だけは「いいもん作ろう」と。「ようこんだけ細かいもんやったな」と言ってもらえるように、こういうボツ(点)でも、人の真似できんようなものをやった。終わると自分で描いたものをジーッとながめる。早い話が、自己満足だわ。自分で描いて自分で喜んどるだけ。

 きれいに描くだけじゃいかん。デザインが難しい。今でも人のもの見ても、自分を基準に考える。「この仕事なら、ワシの方がもうちょっときれいに描ける」とか、「こんな風にはやれん」とか。
 それでも、もういかんな。30分か1時間やったら、横になるわ。早い話が年くっても、五体満足でないと、いい仕事はできんということだわ。技術ばっかりでない。健康でないと。 



 このインタビューは会館1階のギャラリー内で行われたのだが、初めてここを訪れた松岡さんは、入り口近くにおかれた、100年近く前の大きな盛画の壺にしきりに感心していた。
「こんな風に描ける人が世間におったかしらと思った。生まれて初めて見た、あんな盛は。ええ参考になったわ」と。
 当年86歳。「もう引退だ」とおっしゃる松岡さんだが、その様子を見ていると、一点一点良い物を作ろうと一心不乱に描いていた職人の、意地とか誇りとか向上心が、今もふつふつとたぎっているようにも思われた。
いつまでもお元気で、作り続けてほしい。



松岡正男様は平成24年3月ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。