HOME>業界人のお話>第22回 谷沢 昭男 H21.9.25
業界人のお話


第22回 谷沢 昭男さん

   昭和7年 滋賀県生まれ
   谷沢製判所 代表
   (陶磁器用ゴム印彫刻師)


  陶磁器の上絵付技法のひとつにゴム判絵付けがあります。ゴム判に絵具や金液を付けて白生地に直接押して絵付ける技法です。谷沢さんはゴム印彫刻師として陶磁器用ゴム判を長年掘り続けてきた職人さんです。


「わしのとこに来い」と言われて
判屋に弟子入りすることになりました。

―――・ ・・陶磁器業界入りの経緯

  東近江市五個荘(近江商人発祥の地)で生まれ、仕事を求めて昭和26年に名古屋に来ました。芳野町(東区)に船橋さんといって薔薇の絵を描くと逸品の絵描きさんがいて、そこに絵を習いに来ていたら、千代さんという判屋(千代製判所)と知り合って、「わしのとこに来い」と言われて判屋に弟子入りすることになりました。 朝から晩まで判を彫っていました。千代さんが土岐津に移って山加さんの仕事を始めた時もついて行きましたが、年期5年が明けたので、私だけ名古屋に戻って、矢田本通り(名古屋市東区)の後藤さん、東栄堂に住み込みで版彫りに従事しました。


―――・ ・・加藤兵三商店さんでの思い出
  その後、主税町(東区)にあった加藤兵三さんに誘われて住み込みで働きました。兵三さん宅にはお茶部屋や大きな池があって、縁の下まで鯉が泳ぐようにしてあって、それが応接間から見えるようにしてありました。朝昼夜三食本宅で食べさせて戴いて、夜は本宅裏の兵三さんの次男(常務)宅(現在の白壁公園一帯)に用心棒を兼ねて寝起きし、主税町の本宅へ通う毎日でした。金城女学校から白壁小学校までの間、桜が満開の時は白壁の土壁越に一面綺麗に見えました。中庭には茶室庵が在りましたが、進駐軍に接収され住み込まれないように、絵描きさんの仕事場にしてありました。よく遊びに行くとお茶を点ててくれ親切な人でした。春と秋には慰安旅行を行い楽しい会社でした。仕事が終わるとダンスホールへ踊りに行く人、お茶を習いに行く人と様々で、私は野球チームに入っていました。

   どっぷり太った兵三さんは栄にキャバレーを二つ持っていましたね。常務の正平さんはアメリカの大学を出て進駐軍の通訳をしていました。兵三さんが商売を継がせたいのに、ちっとも帰ってこないから、東京に迎えにいったら嫁さんを連れて戻ってきました。
  兵三さんに大事にしてもらえたのは、やはり判を彫っていたからかな?と思ったり、やる気があるのとないのとでは、絵がガラッと変わってくるから、そういうのを見てくれたのか?と今振り返って考えてみたりします。 住み込みだったから、矢田工場長をしていた加藤保さんがやぐらこたつに入っている時に、「こんなどこの馬の骨ともわからんやつ泊めてもいいのか?」って常務に言っていたのを覚えています。口の悪い人だって評判は知っていましたけど。

   
  加藤兵三さん(左から二人目)


―――・・・谷沢製判所として独立
  昭和35年、ひとりで始めようと加兵(加藤兵三商店)さんを辞めてから、しばらくは加兵さんのすぐ東側のあぜ道みたいな道があって間借でそこでやっていたんだけど、都市計画で拡張して道にするということで、7千円もらって、今の山口町に移ったんです。
 今は大きな道になって、コミュニティーセンターや消防車が置いてある。あの辺り一角が兵三さんの土地で、一代でそれだけにしたということは聞いている。一代で無くしてしまったけど。
  加兵さんが林紡績に取られた時(*)、私は辞めていたから内容はわからないけど、日本窯業株式会社と社名が変わって、「日本って大きい名前を付けてもらった」と、加兵の従業員さんたちは皆におだてて貰って、名刺をうれしそうに見せていましたけど、ほどなく廃業してしまいました。今でもOB会は続いていてこの前は蒲郡に行ってきました。

(*)   昭和2年  加藤兵三商店 創業
   昭和37年5月  加藤兵三商店は林紡績に没収され、日本窯業株式会社と社名
 変更される
   昭和40年9月  廃業



判の作り方はほとんど変わらない。
一番原始的なやり方ですね。

―――・ ・・ゴム判作りの技
  この仕事は根気がないとできません。もっとも小僧に行くとやらざるをえません。初めは彫れないですし、まず印刀が研げないです。最初はゴムの裏の「さらえ」からやらされますが、そのうち、自分でイタズラに真似して彫っているうちに覚えていきます。よくやったのは写し絵で、新聞に載っている漫画家の絵を薄い竹紙(*)に写して、その竹紙をゴムにあてがって、つば(水気)をつけて、上から擦るとゴムに写る。そのゴムを掘って楽しんでいました。

(*)    竹紙(ちくし) 極薄和紙の一種、
の表皮や竹の子の繊維を原料として作った紙

  注文は現物見本をもらって掘るのですが、物によってカーブが違うから、「この辺りは曲がりくねっているから、ここで切らないといけない」とか、「これだったら、ここに竹紙を貼って、何等分でやる」など、見本に合わせた判作りが出来ないと、「あそこの判屋は中途半端にやっている」と評判が落ちてしまいます。
   均等に掘るには竹紙を六等分なら六つに折って、または、分度器を当てて、そこに絵をはめ込んでいきます。今、目が悪くなってから思いますが、ディナーセットのような小さな花柄のデザインをよく彫ったと思う。細かいところまで皆彫っていたのですから。飯の種と思えば何でもできたんですね。
  判が出来上がって試し押しはしたことないけど、駄目なら文句がくるからよかったのでしょうね。判を押すのも職人技だから最後に紙を挟んで上手に合わせてくれます。判を彫るのも技術、判を押すのも技術。 転写の技術は時代とともに格段に伸びていきましたけど、判の作り方はほとんど変わらない。一番原始的なやり方ですね。転写は転写だけど、判で絵付けたものはハンドペインティングの裏印を押して売られていました。

       
   [ゴム判絵付け製品]
 
―――・ ・・流し込み技法
  ゴムを直接掘る方法の他に、流し込みという方法もあって、ゴムを直接掘った原版に、少し膠分が利いた糊気のある石膏を流し込んで、石膏に粘りを持たて型を取ります。石膏の型は200〜300度の火に焙ると強度がでます。それが秘伝。型には樹脂の型もあります。
  石膏型に生ゴムを流し込むけれど、生ゴムといっても液体になっているわけではないから、熱を加えて柔らかくし、隙間を埋めるためにハサミで切れ目を入れておいてプレスすると均等に伸びて焼けます。その時の温度が200度くらい。 金判などは油を使うから耐油ゴムですが、耐油性のゴムは流しにくいのです。普通のゴムは油で駄目にならないように絵付ける時にシケラクを押していましたね。 型を取るといってもなかなか真空状態に抜けないのです。プレスした時に平行線が保たれていないとプチプチとちょっとした空気が入ってしまい、後から空気を抜いていきます。 まだその油圧式のプレス機械と道具はひと部屋に置いてありますから、いつでも作れますよ。

―――・・・彫り方にも流儀あり
  彫り方にも流儀があって、私は押して彫りますけど、引いて彫る人もいます。だから、これっていうやり方はない。元々我流の人ばっかりですからね。
   私は印刀の角度をいい加減に入れていましたけど、小野さんという判屋さんはピシっと入れてきていました。 なるほどと思ったのは、千代さんは京都出身の判屋でしたから、「角度をちゃんと直角に持っていって彫るんだ」と喧しいほど言っていました。私たちはそういうことは守っていました。ヤスリでも、機械でも、構えが綺麗に出来上がるかの決め手になります。
  価格にしても、一枚(A4サイズほど)で何種類ものデザインの判を作り、それを切って納品していましたが、判の値段は相場が決まっていたわけではないので、自分の納得がいく分をもらっていました。散髪屋が1時間いくらだからこのくらいって、自分の腹ではそんなふうに計算していました。自分を芸術家だと思って取っていた判屋さんもいましたよ。自分を芸術家と思うか職人と思うかですね。

  
       
  [ゴム判]   

―――・ ・・同業者同士の付き合い
  名古屋の同業者はさ5軒くらい。千代さん、牛田ん、山田安平さん、小野さん、後藤さん(現、東栄堂)。 千代さん、小野さんたちはよくマージャンをしていました。私も覚えたけど、根気のいる仕事で昼間ずっと座っているから、夜まで座っているとそれだけでえらく(辛く)なって….。加兵の人たちも皆マージャンをやっていたけど、私はぷらぷら歩いているほうがよかった。
  辞めていくのは仕事がなくなっていったからですね。私はしぶといほう。石川県陶磁器商工業協同組合が平成12年に作成した「九谷21世紀 九谷焼関係者名簿」の九谷焼関係企業に名前を載せてもらっています。判は薄いから送料が安くていい。材料も道具もあるからいつもで注文に応えられます。