―――・ ・・業界に入ったきっかけは?
昭和28(1953)年の春、父に連れられて名古屋陶磁器会館を訪れたのが始まりです。そのときの印象は、「いいビルだな、いい会社だな」と思いました。昭和28年は、就職難の時代で、同年代でふらふらアルバイトをしている人も多かった。陶磁器産業は右肩上がりのスタートの頃でした。
―――・・・お父様は業界の方だったのですか?
父の西川量三は滋賀県の出身で、芳野町にあった瀬栄陶器に丁稚奉公に入り、社長の水保(水野保一)さんから「りょうぞう、りょうぞう」と呼ばれて、可愛がってもらったそうです。水保さんの娘さんたちをよく小学校まで自転車に乗せて送っていったと語っていました。水保さんの口利きで、戦後は、交易会社(*1)、公団(*2)の検査課、検査協会(*3)と移っていきました。検査協会は、林要さんが専務理事、父が部長をしていました。どこへ行っても、「検査協会の西川さんの息子かね」と、皆さんから声をかけてもらいました。
昭和44 (1969)年に父が亡くなったときは、水保さん、永井精一郎さんも葬儀に参列してくださいました。勲五等瑞宝章をもらえるというので、監督庁の通産省までもらいに行きました。
長男でしたから、父は私を同じ業界に入れたかったみたいです。父の勧めで、私は愛知県立瀬戸窯業高等学校へ進み、1年目には、原型から絵付けまで一通り習い、2年目で商業課に進みました。
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西川量三さんは、財団法人日本陶磁器検査協会の設立総会(1957)に理事に選出され、理事(検査部長)を務めていた。
『検査十年 創立十周年記念誌』1967年、財団法人日本陶磁器検査協会より抜粋 |
―――・ ・・どのようなお仕事をされていましたか?
北米課に配属され、上司は小坂井桂さんでした。私が取扱っていた商品はノベルティで、主なメーカーは瀬戸の丸山陶器さん、光和陶器さん、四日市の笹岡製陶所、常滑の光洋陶園さん、丸五製陶所さんでした。
まずメーカー回りですね。四日市は名古屋駅から近鉄が走っていましたが、常滑は不便でしたよ。市電を使って、平田町から明道町まで出て、神宮前へ、そこから常滑へ電車を乗り継いで行きました。各地とも駅からは歩きで、メーカーからの帰りは、見本を持ち帰るので、4サイの重たいカートンを両手に抱えて、大変な仕事でした。そのうち、メーカーさんとも仲良くなると駅からの往復は自転車を借りて行くようになりました。昭和29(1954)年からはスクーターになりました。街中は自転車でしたけど、瀬戸や常滑はスクーターで行くようになり、楽になりました。
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ジャパントレーディングの裏印(昭和23年〜27年頃) |
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瀬戸、四日市、常滑の各産地の特長はありましたか?
それぞれ違いはありましたが、大きな違いはなかったです。デザインはバイヤーの企画で造ります。バイヤーから外国製の見本が大量に送られてきました。その頃はイタリー製のものが多かったです。
―――・・・特に印象に残っていることはありますか?
辛かったことは、入社したばかりの頃、会館の向かえに長屋があって、その裏に会社の倉庫があったんです。そこで、アソートといって、商品を船積用に荷造る仕事を任されました。紙で包んだ商品を木毛で梱包して、木箱を帯鉄でとめて、かなづちで釘を打ってとめる仕事です。一人ではできないので、日雇いの人たちを使っていました。就職したばかりで分からないこともあったけれど、1度聞いたことを2回も聞けなくて、トイレで泣いたこともありましたよ。その時代は、上司からばんばん厳しくされるのが当たり前の時代でしたから。厳しい時代の最後でしたね。私たちの後から入社した人は少しずつ緩くなっていきました。
昼に荷造り、夜は書類作成と、毎晩深夜まで働いていました。その頃は、日本中が深夜まで働いていた時代です。その時の初任給は5,500円に残業手当がついていました。
―――・・・主なバイヤーはどちらでしたか?
主力バイヤーはロサンゼルスのクライス&カンパニーでした。30歳代で海外出張するようになり、最盛期には1回の渡米で8千万円から1億円の注文をもらってきていました。40歳前でしたから、昭和40年代後半の頃のことです。
バイヤーは年に2回程度来名していました。
バイヤーは神様といった感じで、宿泊しているホテルへ出向き、クリーニングの出し入れ、明治屋に食材の買出しにと、走り回っていました。
その頃(昭和35年)、車の免許を会社から取りに行くことになり、経理の小原さん、5代目社長の小林さんと私の3人が行きました。最初に取ったのが私で、何かあると車で名古屋港まで走って行きました。
クライス&カンパニーの注文でしたが、自動車のタイヤ会社「グッドイヤー」の景品として、半磁器製の七面鳥柄の大きなプラターを大量に出荷しました。メーカーは瀬戸の山万陶器さんでした。
―――・・・当時の会館の様子を教えてください。
会社は3階の増築部分にありました。その時は、間仕切りは一切ない大部屋で、一番奥の南側に受渡課がありました。受渡課では、手書きした通関書類の原稿をタイプで打つ仕事をしていました。13枚のカーボンをタイプするので13枚目なんかは写ってなかったですよ。受渡課の北側に経理、その手前に総務、その手前が私の所属していた北米課、順に東亜課、欧亜課、一番手前の南側が副社長室、北側が 課がありました。部屋の南側だけに電話が6台あって、電話が鳴ると走って取りに行っていました。
3階の手前の部屋は2部屋とも見本室となっていました。見本室はバイヤーが来たときに綺麗にするだけで、いつも雑然としていました。
2階の北側の小部屋に永井精一郎社長室兼日本陶磁器輸出組合理事長室があり、そして、2階の「POTTERY CLUB」のあった大広間は思い出が深いです。ご飯を作るおばさんがいて、お昼を食べによく出入りしていました。カウンターはその当時のままです。私は会議には出席したことはないけれど、会議もここで頻繁に開催せれていました。
1階の今の展示室に日本陶磁器輸出組合があり、玄関横の部屋が名古屋輸出陶磁器協同組合、玄関正面の部屋(現、事務所と販売コーナー)は空き部屋で卓球台が置いてありました。時間が空くとよく、みんなが卓球をしていました。もちろん、永井さんのような偉い方はしませんよ。
会館ですごした4年間が私の原点ですね。懐かしく、落ち着きます。
(*1)日本陶磁器交易会社
(*2)鉱工品貿易公団
(*3)日本陶磁器検査協会