HOME>業界人のお話>第27回 鈴木 俊昭 H24.2.10
業界人のお話


第27回 鈴木 俊昭さん

1947年(昭和22)生まれ

財団法人 名古屋陶磁器会館理事
元日本陶器株式会社常務取締役営業統括部長

元ノリタケヨーロッパ社長

元ノリタケ香港社長
元英国ノリタケ社長
元ニットートレーディング社長
元日本陶磁器産業振興協会 専務理事

いままで、業界の大先輩達から貴重なお話を伺ってきましたが、今回は、最近までノリタケの営業の最前線でご活躍をされていた、当会館理事の鈴木俊昭氏にお話しをお聞きします。

 


―――・ ・・日本陶器入社からドイツ駐在へ(1971~1980)
 

 私が、日本陶器(ノリタケ)に入社したのは、おりしもニクソンショックで、日本中の輸出業界に大激震が走った1971年でした。本社採用の同期入社は、26名で、多少、英語には、自信があったのですが、スペイン語、タイ語、に堪能な者、鉱物の博士等多才な連中で、おおいに切磋琢磨されました。所属希望に貿易部としたのですが、貿易部は、新入社員は入れてくれず、輸送部輸出課でまずは、修行する事となりました。 デスクワークと思って背広にネクタイで出社したら、当時、鬼課長と呼ばれていた上司から作業着と安全靴を渡され現場へ行くように指示されました。そこでは、タリーと言って、輸出される商品がインボイスと合っているかをチェックする仕事をするよう言いつけられたのですが、担当は、私だけで、多忙でトイレへ行く時間もない程でした。 当時、ノリタケの本社工場は、3,000人近くが働いており、輸出向けの食器は、4トン車―10台で、本社と名古屋港の間をピストン輸送していました。その量は、半端でなく、1日に数千カートンのタリーをしました。5時に出荷が終わり、事務所に戻ると、なんと、それからが事務作業です。仕事が終わるのは、深夜で、昼間の疲れと面倒臭さから、机の横に座布団を敷いて寝たものです。現代の学生だったら、1日で辞めてしまうような地獄の新人生活でした。5年後にやっと、念願の貿易部への配属が決まり喜んだのは束の間で、また、しばらくは地獄の訓練が続いたのです。 当時、海外との交信は、FAXというものが無く、郵便とテレックスでしたが、新人は、このテレックスの送受信が、担当でした。特に、送信が大変な作業で、紙テープにローマ字を打ち込み、これを機械で流すのですが、先輩達の原稿が渡されるのは、決まって5時過ぎです。それから、送信作業に掛かるのですが、1字間違ってもすべてやり直しとなり、毎晩12時近くまで掛かって送信終了となります。大変な作業でしたが、今、自分の流した文面が、同時に、ニューヨークやロンドンに伝わっていると思うと満足で、走って、終電に飛び乗ったのでした。

  入社7年目に、ドイツノリタケへの赴任を命じられ、意気揚々と、フランクフルトへと降り立ちました。日本人社長が出迎えてくれ、早速、事務所へ行くのかと思っていたら郊外のカジノへ連れていかれ、まずは、ルーレットの賭け方を教えられ驚いたものです。当時ドイツノリタケの社員は、12名程でしたが、その内2名は、ドイツ語しか解らず、彼らともコミュニケーションを取るため、ベルリッツの夜学に通い始めました。3ケ月程すると、なんとかドイツ語が解るようになり、営業活動を開始しました。

  ドイツ国内の販売は、陶磁器専門店が主な顧客で、店主は、ドイツ人特有の頑固一徹な人が多く、日本のノリタケといっても、なかなか相手にしてくれません。食器を売るのには、大変苦労をしましたが、折からの東洋ブームに乗った伊万里調の絵付けを施したギフト商品と瀬戸のノベルテイ―は、大変な人気でした。 

特に、瀬戸の大東三進、ヤマサ製の鳥は、品質にうるさいドイツ人も高く評価をしてくれておりました。ノリタケの社員として赴任したのですが、売っているものは、まるで雑貨屋の如くで、洋食器の本場の厳しさを思い知らされたものです。更に駐在員としての重要な仕事は、日本からの顧客のアテンドです。フランクフルトから車で1時間程のハイデルブルグ城―写真―には、4年間のドイツ駐在でのべ 50回は往復し、JTBのガイド以上の知識を得て、海外駐在員の多様な仕事を認識させられました。


―・ ・・・アイルランド工場から中近東市場へ(1981-1990)

1970年代後半から欧州連合(EU)の動きが活発化し、EU向けの販売を伸ばす為、EU圏内に陶磁器食器工場を設立する事となり、ドイツからアイルランドに転勤となりました。アイルランドには、欧州を統括するノリタケヨーロッパという会社が設立され、欧州全域への販売を開始しました。欧州統括本部とはいえ、場所は、首都ダブリンから80km南の、工場のあるアークローという人口9000人の小村で、周りは、羊と牛ばかりという所です。現在は、円高もあり、日本企業も市場内に生産拠点を設ける事は当たり前となりましたが、当時では、日本の会社が、EU内の工場からEU内の顧客へ 売るような事は珍しく、アイルランドでもまだ、日系企業は旭化成とノリタケだけという時代でした。残念ながら日本からの貿易という事から一時外れましたが、まるで東北人のような素朴で人懐っこいケルト系白人達と、親戚のような付き合いができ、今でも、老後は、アイルランドに住みたいという気持ちを持っています。給料日(週給)の次の日は、酔いつぶれて2/3くらいの社員しか出勤しないというビジネスに関しては、二度と一緒にやりたくない連中ですが、一緒に居るには、最高の連中です。 結果的にはこの生産性の低さから、ノリタケの工場は、その後、閉鎖を余儀なくされました。
1985年に、帰国すると、本社の貿易部中近東課長となりました。ドサ周りの始まりです。

 
   当時、中近東は未知の市場でしたが、黄金の市場でもありました。石油が出て僅か数十年で、富があふれ、砂漠に住んでいたベドウィン人達は、砂漠に御殿のような家を建て、何十台ものクーラーを付けて、何台もの高級車を乗り回していたのです。
 出張は、1度出ると、中東の10都市を40日以上を掛けて回るという長旅で、しかも、見本のデイナー皿を30枚以上を持って行く為、荷物は、常に50キロを超えていました。1度の出張で100万ドル(約1.5億円)の注文が目標で、部長からは、100万ドル注文取るまでは、帰ってくるなと云われ、砂漠の月を見ながら、‘月の砂漠‘を唄って日本を懐かしんでいた事を思い出します。その内、中東の人達とも友人関係が出来、注文は適当に作っておいてくれと言われるようになり、旅程半ばで、注文の目途を付ける事が出来るようになりました。当時、陶磁器食器に関しては、英国、フランス製品がドバイ市場等に出ていましたが、他の市場では、競合相手もおらず、どこへ行っても大歓迎でした。中東の風習にも慣れ、当初は、別世界のように感じた違和感も徐々に薄らぎ、世界は一つという事を実感しました。
 中東出張で、特に印象深いのは、1987年11月29日に起きた大韓航空爆破事件です。私は、ちょうどその頃、重い食器の見本をぶら下げて、50日にも及ぶ中東行脚を続けていたのですが、砂漠―砂漠のサウジアラビアからバーレーンに到着した寸前、日本のパスポートを持った真由美こと金賢姫が、バーレーン空港で逮捕され、青酸カリで自殺を図ったのです。その直後、何も知らずに、税関吏に日本のパスポートを出した私は、警官に取り囲まれ、別室に連れていかれました。この危機を救ってくれたのは、王室に繋がる高官で、王室用の食器を製作した縁で知り合った友人でした。


―――・ ・・香港支店設立から東南洋市場へ(1990-2000)
 香港は、シンガポールと並ぶ、東南洋市場の要でしたが、1984年に英国のサッチャー首相が1997年の中国返還を承認し、返還が近づくにつれ、香港人の海外移住が始まりました。中国側は、1国2制度を守ると引き止めに掛かりましたが、当時、香港人は、誰ひとり、中国を信用していなかったのです。ノリタケも戦前から続く、代理店がありましたが、この経営者一家が、カナダへ移住すると云いだし、ノリタケが直接、支店を出して営業権を引き継ぐ事となり、この為、1989年、単身、香港へ送り込まれました。
  香港へ赴任して、まず、住居探しをしましたが、空いていたのは、事務所の近くのアパートの43階で、毎晩、一人で百万ドルの夜景を楽しんでおりました。ところが、ある日、恐れていた事がおきました。エレベーターが故障して止まったのです。30分掛けて歩いて降りたのですが、次の日は、ひどい筋肉痛で、これ以来、高層に昇るのは避けるようになりました。 
香港の陶磁器市場は、英国の植民地であった事もあり、英国品が主流で、百貨店の中でも良い売り場は、英国品に独占されていました。そこで、自前の小売店を展開する事を考え、九龍半島に1店、香港島に1店の直営小売店を設けて、販売に乗り出しました。当初は、洋食器中心でしたが、その後、顧客からの意見を取り入れ、中華食器、和食器の取り扱いを開始しました。折からの、日本食ブームで、美濃から仕入れた和食器は、飛ぶように売れ、小売り店はおおいに繁盛しました。しかし、返還の97年が近づくと、富裕層から海外への脱出が始まり、香港の小売業は、低迷の道を辿り始めました。 そこで、今度は、営業用の食器に目を付け、マンダリンホテル、ヒルトンホテルを始め、多くの5つ星ホテルへの食器の納入が成功し、息をつきました。更に、香港に本社のあるキャセイ航空から機内食器の受注に成功し、1度の発注で100万個という生涯でも最多数の注文を貰う事が出来ました。この勢いで、香港から、上海、北京へも販路を広げて中国市場進出への足掛かりを作ろうとしましたが、まだ、市場が成熟しておらず、ノリタケのコーヒーカップの価格と売り場の店員の月給が同じという状況で苦戦を強いられました。
 5年の香港勤務の後、日本へ帰国し、海外営業部次長となり、貿易全般を見る事となりました。当時の米国市場は、安定成長を続けており、売上を伸ばすのは、急成長を遂げている、東南アジア市場だと目をつけました。自分の足で、アジアの隅々まで歩いて、市場調査をしましたが、民市場は、まだ成熟に至らず、取り敢えず、ホテル、航空会社向けの営業用食器と、特権階級向けの高額食器で勝負する事としました。
  東南アジアでの1番の金持ち国は、当時、ブルネイ王国で、ブルネイの王様をターゲットとして、食器の売り込みを図りました。その結果、東南アジア最大で、1000室を有する、王宮の食器受注に成功する事ができました。その後は、インドネシア大統領、シンガポール首相、マレーシアサルタン、タイ王室ととんとん拍子で、VIP用の食器の受注に成功する事が出来、売上だけではなく、ブランド力の向上が出来ました。その後、航空会社向けの機内食器販売に力を入れ、東南アジアの殆どのエアラインが、日本製の食器を使ってくれるようになりました。航空用食器は、世界中の寄港地に、ストックを持つ為、ジャンボ機―1機で数万個の食器が必要で、注文数は、膨大な数量となります。このおかげもあり、東南アジア市場は、米国に次ぐ重要な市場に成長したのです。

―――・・・英国から日本へ(2001-2010)
   
  入社以来、30年間に渡って、走り続けて来て、そろそろ疲れたな、と思っていたら、英国ノリタケへの赴任を命じられました。英国ノリタケは、設立以来、30年以上経ち、安定的な経営が続いていたので、のんびり出来るとロンドンに降り立ったのですが、実際は、火の車で、全英に16店あった百貨店内のSHOP-IN-SHOPのやり繰りに奔走する毎日が続きました。英国市場では、巨人WEDGWOOD社とROYAL DOULTON社が共に経営危機を迎え、英国の陶磁器食器市場も大きく変わりつつありました。価格の高い日本製の食器から、英国品と比べても割安な、スリランカ工場製の食器に切り替え、なんとか市場を維持する事が出来ました。一方、パリには、有名なブテイ―クの集まる、サントノーレ通りに、高級品のみを扱うノリタケショップを、フランスのハビランドパルロン社と合弁で設立し、ブランドイメージを高める事も行いました。パリには50回以上行きましたが、ユーロスターで僅か数時間で行き来出来る、フランスと英国の間の大きな文化のギャップには大いに驚かされました。食器の好みも違えば、使う食器の種類も異なりますし、人間性も違います。これだけ、文化、歴史、人間の異なる国を、EUという一つの大きな集合体にまとめ上げた、リーダー達の努力には敬服するばかりです。2001年に、本社社長がロンドン、パリへと来訪し、帰国して、ノリタケグループの他社仕入れを統括するニットートレーデイングの社長をやってくれと云われ、帰国する事となりました。
  ニットートレーデイングという会社は、ノリタケブランド以外の輸出をする事で設立された会社ですが、帰国後、国内も含め仕入れ品をすべて統轄する事となり、多治見に仕入れ事務所を開設しました。輸出に関しては、米国のLENOX社向けに、フィギュアリンを扱っており、仕入れは、瀬戸から、台湾―マレーシアー中国と移り、中国工場からの仕入れが中心になっていました。LENOXの要求する品質は非常に高く、原型は、全て、瀬戸の日本人が作っており、中国人に技術指導をしておりました。現在の中国陶磁器は、品質が年々上がっており、日本品と比べても遜色のない商品を供給出来るようになりましたが、これは、日本からの技術指導の賜物だと言えます。陶磁器業界では、中国製品の輸入阻止を叫ぶ声と、中国製品を積極的に国内市場に販売しようとする矛盾した勢力があり、難しい状況が続いています。
  2003年には、ノリタケ本社は、小人数のみを残した、持ち株会社となり、食器部門は、日本陶器となり、常務海外営業部長となりました。この頃には、90年代半ばに、約1億ドルあった食器輸出は、7000万ドルを切るようになり、世界的な陶磁器食器市場の凋落が始まったのです。主力の米国市場もノリタケが長年に渡って築き上げてきた、フォーマル食器から、日常使いのカジュアル食器へと変化を遂げ、創業数百年を誇る、欧州の1流メーカーは、軒並み倒産の危機に瀕したのです。英国のWEDGWOOD、ROYAL DOULTON、ドイツのROSENTHAL、HUTSCHENNREUTHER 、更には、米国の誇りであったLENOXも倒産し、金融ファンドの持ち物となりました。 まさに、陶磁器産業にとっての氷河期が訪れたわけで、これは、日本のメーカーのみならず、一部新興国を除く、世界中の陶磁器メーカーにとっての大きな試練の時となりました。

―――・・・40年のノリタケ人生を振り返って
 入社以来、40年、殆どを食器の輸出販売に捧げた人生でした。通算15年の海外駐在を除いても、年間200日以上、海外へ出張していた年もあり、妻と娘には、本当に迷惑を掛けたと思い、今でも感謝の気持ちでおります。世界65ケ国以上を訪れ、キャセイ航空のマイレージは、80万キロと、月へ往復してもまだ余る程で、人生の何パーセントかは、飛行機の中で過ごしたようです。しかし、得るものも大きかった会社人生でした。世界中に友人以上の付き合いのある人々が出来、今でも彼らとの交流が楽しみになっています。

  また、海外で出会った日本から輸出された陶磁器は、現地で、高く評価をされ、いつ頃、誰の手によって作られ、何万キロも離れた場所まで辿りついたのか、大変興味を覚えました。 今、名古屋陶磁器会館の仕事をさせて頂いているのも何かの縁を感じております。  
日本製の陶磁器は、戦後の1時期、‘安かろう悪かろう‘という気持ちで作られ、海外で日本の評判を落とす事もありましたが、すぐに、業界の自浄作用が働き、良いものだけが海外へ渡りました。そのおかげで、世界の辺境に行っても、日本製陶磁器の 評価は高く、いつも誇りを持って営業活動ができた訳で、陶磁器業界の先輩達の偉業には、頭が下がります。今、日本から世界への陶磁器輸出の総元であった名古屋陶磁器業界、それに繋がる瀬戸、美濃地区の陶磁器メーカーさん達は、苦難の時を迎えていると存じます。国内市場は、ピークの年の1500億円余りから、昨年は、約500億円と1/3に縮小し、頼みであった輸出も同じく96年の207億円から、60億円を切るまでとなっております。 現在、業界では、産学官が共同して、名古屋陶磁器の偉業を歴史に残そうという努力と、平行して陶磁器産業の再興を図ろうとする努力が図られています。世界の陶業産地を見ると、英国のストークオントレント、ドイツのゼルブ、フランスのリモージュ等には、まさに陶磁器産業の偉大な功績を見る事が出来ます。しかも、往時の繁栄は望めませんが、独自の陶磁器が製造されて産業が継続しております。 我々、陶磁器輸出に携わった者の、ルーツである名古屋陶磁器をこれからも後世に是非伝えて行きたいと考えております。