三郷陶器へ入社
三郷陶器は昭和28年(1953)、加藤鍇三さんが昭和7年(1932)尾張旭市に創設した三郷製陶所(素地製造業)と、戦後に伊串商店の伊串浅七さんと加藤鍇三さんとが設立した三郷陶器(加工完成業)が合併して一貫製造メーカーとなりました。従業員数1,300名の規模でした。
鍇三さんは多治見の市之倉出身で、五代加藤幸兵衛さんの弟さんです。三郷製陶所は白生地ディナーセットを名古屋のメーカーに納めていました。
伊串商店は赤塚(名古屋市東区)で加工完成業として明治44年(1911)頃に創業し、名古屋製陶所の下請けの仕事をしていました。浅七さんは2代目で、昭和21年(1946)に三郷製陶所の向えに三郷陶器(旧)を設立されました。セイコー(服部時計店)の資本も入り、鍇三さんが社長、伊串さんが専務でした。
私は、昭和22年(1947)名工専を卒業して1年間は名古屋市立笈瀬中学校で教師として勤めましたが、別の仕事に就きたいと考えていました。そこで、学生時代の先生から伊串さんを紹介されました。伊串さんは名古屋商業高校の出身でしたが、この先生の教え子でもありました。三郷陶器の工場は尾張旭市にありましたが、事務所は赤塚の神明社の裏にありました。最初、茶わん屋はいやだなと思いましたが、輸出するからアメリカに行くことができるという話で、お世話になることになりました。
昭和26年(1951)、三郷陶器は輸出入営業部門として「株式会社春日」(名古屋市東区赤塚)と、アメリカのロスに販売部門としてKASUGA SALES,Ltd.LAを設立させ、私は春日に配属となりました。
春日では、三郷陶器の製品のほか、ヨーロッパ向けにデコ盛りや芸者透かしの碗皿、丸山陶器をはじめとする瀬戸製のノベルティも輸出していました。タイプライターやリンナイのガスセットも扱っていました。商社ですから、ドイツなどから絵付け材料を輸入して、日本金液などにも販売していました。輸入先はイギリスのエミリー、ブライス、ドイツはデグサ社でした。
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モンゴメリー・ウォードの注文
注文の量が多かったのは、カタログハウスのモンゴメリー・ウォードからのディナーセットの注文でした。三郷陶器だけでは製造が間に合わないので、名古屋製陶所、鳴海製陶、大和陶器、丸多製陶所、カネダイ製陶所、日本硬質などに発注しました。大量の注文は昭和31年(1956)頃から4,5年続きました。モンゴメリー・ウォードの資金力はオイルマネーだろうと思いますね。
ロイヤル・アルバード輸入販売
春日を定年退職するまで10年間は、ロイヤル・アルバートの輸入販売の仕事をしていました。日本製の食器が1,000円に対し、ロイヤル・アルバートのボンチャイナは3,500円でしたから売れるはずがないと思われていましたが、売れるポイントがありました。贈答品には日本製の日用食器ではだめで、ブランド商品でなければ売れない。広告会社を使って、家庭画報に1ページ300万円の広告を載せて宣伝しました。三越や伊勢丹がいち早く、高くても売れるブランド商品を扱いました。日本人の高級品志向とマッチしたのです。その後、全国の百貨店にヨーロッパの高級食器が並ぶようになりました。
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【写真:ロイヤル・アルバート室 春日ビル1階 (1986年)】 |
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【ロイヤル・アルバートのカタログ(1975年)】 |
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ディズニー商品
最初にディズニーのキャラクター商品を製造したのも三郷陶器でした。きっかけは、ロスのKASUGA*で働いていた日系二世の人が、ロスにできたディズニーランドでディズニー商品を販売したいけれど、どこか製造してもらえる会社を知りませんかという相談からでした。すべてのビジネスが人と人との繋がりです。
*KASUGA
SALES,Ltd.LA:
U.S.A.の販売部門(春日の100%出資)、現在は、SANGO USA,N.J. U.S.A
アジア諸国への技術支援
メーカーとして三郷陶器は、昭和36年(1961)頃に、台湾の大同磁器よりパートナーとしての話があり、多くの技術人が出張し協力しました。
その時のエピソードがあります。台北から廖長庚氏が来社された時、工場としては迷っていました。伊串専務が上京し、セイコー(服部時計店)の服部正次社長に相談しましたら、服部社長は、「台湾という国は、日本が大変お世話になった国で、損得は考えず、ベストを尽くして恩返しをしなさい。」と即座に指示されたのです。余力の人材がない時にも一貫して完成と印刷技術も協力できた次第です。
続いて、韓国陶磁器(Hankook China)は新しい素地のディナーセットを作り上げ、その製品は春日よりU.S.Aへ販売されました。その他に、インドネシアからSAPTOUHさんが三郷陶器へ滞在し、研修していきました。SAPTOUHさんがインドネシアに帰国して間もなく現地に、PT.SANGO,CERAMIC,INDONESIAができました。賃金、為替の好条件から現在は3,000名位の規模になっています。
セイコーの意見もあり、日本からの投資はして来なかったです。夫々の現地での合併などで存続しています。中国の工場からは今もSANGO U.S.Aへ直接の輸出取引が続いています。
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終わりに
幸いにも人恩と絆を感謝すべき日々です。国内そして世界のメッセや旅のどの年月にも一期一会があると思います。
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花巻温泉の旅(ポッタリー倶楽部)昭和62年(1987)の思い出は、先輩・諸兄への思いと絆です。
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前列左から伊藤博(伊藤幹三商店)、斎藤公一(斎藤商店)、福井喜蔵(丸栄蜂谷商会)、恒川清(ジャパントレーディング)、後列左から風間康長(YO-KO㈱(元日本窯工貿易)、朝岡正臣(太洋商工トレーディング)、陸浦冨士之(㈱春日)、水谷美武(茂木商事)、桑田安正(名古屋貿易)、首藤鋎次(㈱スドー) |
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