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業界人のお話


第30回 小椋 寿紀 さん

1940年(昭和15)生まれ

  組合職員として48年間業界を見続けた



1961年(昭和36)年9月に名古屋輸出陶磁器協同組合に職員として入り、 1987年(昭和62)事務局長に就任。2002年(平成14)11月名古屋輸出陶磁器協同組合解散に伴い退職。 その後、財団法人名古屋陶磁器会館に就職、2010年(平成22)に退職。

20歳の時にこの業界へ

──小椋さんがはじめて陶磁器会館に来たのは?
小椋: 昭和36年の9月。20歳のときだった。ある企業からこの組合に転職した。それまで勤めていた会社は接着剤をつくっていて、すごく儲かっていた。そのため、残業が多くて、これでは体をこわしてしまうから、もう少しゆっくりしたいと思って転職を考えた。
 ここの組合を選んだ理由は忘れてしまったが、職安で見つけて、とりあえず行ってみようと。初めて陶磁器会館を見たときには「えらい古いなあ」と思ったものだ。名古屋港から陶磁器をかなりの数量輸出していることは知っていたが、名古屋の東区にまとまった陶磁器産業があるとはまったく知らなかった。
 わたしは名古屋輸出陶磁器協同組合(これ以降は協同組合と略す)に就職したが、昭和32年に名古屋陶磁器調整組合から改組した名古屋陶磁器工業組合(これ以降は工業組合と略す)が新しい事業を始めるに当たって職員を募集したため、最初はかなり工業組合の仕事をした。
 協同組合と工業組合の組合員はほぼ同じ顔ぶれで、いずれも加工完成業者。協同組合は組合員のために資材の共同購入などの事業を行ったが、なかでも、その当時の事業の柱は金融、つまり金貸しだった。当時は中小企業が金を借りることは非常に難しかったため、組合が銀行から借りて、少し利息を上乗せして組合員に貸す事業を、多くの組合が行っていた。その後、銀行が直接、中小企業にお金を貸すようになると、組合の金融事業はなくなっていたが(協同組合の金融事業は昭和56年に廃止)。 一方、工業組合は、組合員のルールづくりが主な事業だった。たとえば、最初にやったのは窯の登録。これは過当競争を避けるために生産設備を制限するのが目的で、窯をつくる場合は、他の人から窯の権利を買わないといけなかった。こうしたカルテルは独占禁止法によって禁止されているが、当時は、法律に基づいて特別に認可されれば許された。 

 【協同組合の事務所が入っていた名古屋陶磁器会館】


 

誰にも仕事を教わっていない

──小椋さんが組合に就職した当時、陶磁器会館にはどんな人たちが入っていたのか?
小椋: 協同組合、工業組合のほかには民間企業がいくつか入っていた。貿易の日本社(のちの日本陶業新聞社)、貿易商社の大商とウィリアム・E・カーナ、金液の大研化学など。
 組合が使っていたのは玄関を入って右側の部屋で、当時、職員は9人だった。また、1階の奥が応接間。2階の大広間は総会などに使っていた。

 
 【協同組合の事務所だった部屋は
現在レザークラフトのお店「canine republic」として利用されている】
 
組合職員は金融事業担当、経理、庶務、事務、タイピストなどがいたが、昭和34年に再建された名古屋城内の売店で陶磁器土産品を販売する担当者が一人いた。これは名古屋城が再建されたときに、組合が手を挙げて売店に参加することになったものだ。販売したのは組合員がつくった陶磁器製品で、お城の置物とか灰皿などだった。当初はかなり売れたようだが、その後徐々に売上は減り、昭和52年に撤退した。当時は輸出が伸びていた時期だから、どうしても片手間になり、新しい商品開発にも力が入らなかったのが原因だろう。
 わたしが組合に入ったときの給料は8000円くらいだった。その後、毎年昇級していったが、まあ、他の業界に比べて、給料は低かったと思う。
 わたしは、仕事は誰にも教わっていない。新しい仕事ばかりだったから誰もやり方を知らなかったからだ。一番はじめにやった仕事は工業組合の事業で、ノベルティの最低価格のチェックだった。輸出検査をするための事前審査として、品目ごとに決められていた最低金額が守られているかどうかをチェックした。要するに、あまり安い金額で輸出されては業界が困るから、それを事前にチェックしたわけだ。1才当たり(1立方フィート)いくらかが決められていた。この最低価格の事業は1、2年で終わり、その後、工業組合は数量調整事業を始めた。



大変だった量調整事業

──数量調整事業というと?
小椋: 昭和30年代前半から、ディナーウエアがくしゃくしゃになりかけ始めた。くしゃくしゃというのは過当競争がひどくなったという意味で、それをなんとかしようと工業組合ができた。
 工業組合の調整事業というのは、品目ごとに、業界として年間に輸出できる量(容積)を決め、過去の実績に応じて各社に量の割り当てをしたというものだ。つまり、一定の量以上は輸出しないと取り決めたわけだ。もちろん、このカルテルは法律に基づいて特別に認可されたうえで実施した。この調整事業は昭和の終わりまで続いたはずだ。
 調整事業は、ディナーウエアから始まり、最終的にはほぼすべての製品が対象となった。ディナーウエアの場合は、バラ物、組物によって最低価格が決められていた。バラ物は14.7ドル、組物はスタンダードの93ピースのディナーウエアが最低価格16ドルで、それ以下の価格では輸出することができないということになった。
 しかし、価格の高いキャセロールなどを省き、そのかわりに価格の安い碗皿などを加えて97ピースというセットを組んで、価格を安くして出荷するところもあった。それを一つひとつチェックして、どういう構成になっているか、価格が適正かどうか確かめていかなければいけない。膨大な書類を毎日毎日チェックして、午後1時までには検査協会に提出しなければいけなかったから、あの頃は大変だった。
 はたして、この調整事業が業界のためになったのかどうか。その判断は難しいと思う。輸出がかなり減った昭和の終わり頃は、すでにあまり意味がない状態だったのは確かだが、輸出が多い時代には、業界内の過当競争を抑止する一つの歯止めになったのは確かだろう。
 そのうち、調整事業を守らない業者も出てきたこともある。出荷可能な量を他の業者へ譲渡したり、逆に譲り受けたりして、業者間で融通し合うわけ。そういうことが行われると、さらにチェックが煩雑になった。


印象深い井元啓太さん

──工業組合は調整事業がメインの事業だったが、協同組合のメインとなる事業は?
小椋: 協同組合は、そのときどきに応じて業界のためになる事業をした。ある時期、金融事業は重要な事業だったが、それも時代とともにだんだん減ってきた。
 組合員の従業員の給料計算の代行をやっていたこともあるし、昭和40年代には組合員のために、内海に海の家をつくったり、山の家をつくったりしたこともある。それは、当時、夏休み期間中は、ほぼ満員状態になるほど人気だった。
 また、同じく昭和40年代には、重油戻税があった。重油を輸入するときにかかっていた関税が、陶磁器製品として輸出したときに戻ってくるというものだ。これは陶磁器業界全体の働きかけによって認められ、業界に大きな恩恵をもたらした。
 昭和から平成になると、組合員も少なくなってきたし、この業界は将来どうなるのかという思いをみんな持っていたはずだ。廃業する組合員が増えてくると、なんとかその歴史を残しておきたいという思いから、各組合員がつくっていた製品を譲り受けて会館に保管するようになった。今、会館の1階に展示しているコレクションは、そのようにして集めたものだ。
 わたしは3年前、68才の時に退職した。組合で働いた48年間のなかで思い出に残っていることというと、なんだろう。
 いろいろな人たちがいた。組合員のなかには、陶磁器会館で会う雰囲気と自分の会社で会った雰囲気が違う人もいた。逆に、自分のところの社員も組合の事務員も同じように区別しない人もいた。組合員もそれぞれだ。
 たとえば井元啓太さんは、わたしたち組合の職員にもけっこう声をかけてくれた。井元啓太さんはビールパーティも開催したり、会館に冷房を導入したり、いろいろなことに取り組んだ印象深い方だった。
 組合員の方たちとロンドンへ行ったこともあるし、いろいろな部会で、組合員とつきあったのも楽しい思い出だ。
 わたしの上司だった森川鉦雄さんは30歳代で組合職員のトップとなった人だった。昭和62年に辞められるまで、毎日、理事長のところに行って支払いの決済をもらったり、業界のはなしをしたり、今後の方向性などを相談していた。
 わたしが森川さんのあとを継いでからは、輸出はかなり厳しい時代へと移りつつあった。そのため組合の職員はどんどん減っていったが、それだけに効率的に仕事をこなさないといけなかった。人数が少なくなっていくなかで、いかに効率的に仕事をこなすか。考え続ければ、何か方法が見つかる。ふとしたときに、アイデアが浮かぶこともある。



自由に仕事ができた

──組合の仕事が、そんなにクリエイティブな面があったとは知らなかった。
小椋: 組合職員は、協同組合、工業組合を合わせて、一番多いときには20人くらいいた。それも徐々に減っていったが、人が少なくなっていくなかで、同じような結果を出すにはどうしたらいいかと考えることは、非常にクリエイティブだった。ワープロやパソコンの導入も業界ではかなり早いほうだったから、他の組合が見学に来たこともある。
 しかし、工業組合は平成元年に解散し、協同組合は平成14年に解散した。組合の役目はすでに終わった。
 わたしが組合に入ってから、この業界がすごく景気がいいと感じたことはなかった。他の産業の勢いと比べると、どうしても後れを取っているように感じたからだ。そのため、大卒でこの業界に入った人はほとんどいないはずだ。
 ただ、組合の仕事は自分に合っていたと思う。わたしは先ほども言ったように、仕事は誰にも教わっていないが、結果だけは常に求められた。その反面、結果さえ出していれば、仕事のやり方に対して、だめだと言われたことはない。ある意味で、自由に仕事がやれたということは自分にとって大きかったし、組合は働きやすい職場であったと思っている。