──小椋さんがはじめて陶磁器会館に来たのは?
小椋: 昭和36年の9月。20歳のときだった。ある企業からこの組合に転職した。それまで勤めていた会社は接着剤をつくっていて、すごく儲かっていた。そのため、残業が多くて、これでは体をこわしてしまうから、もう少しゆっくりしたいと思って転職を考えた。
ここの組合を選んだ理由は忘れてしまったが、職安で見つけて、とりあえず行ってみようと。初めて陶磁器会館を見たときには「えらい古いなあ」と思ったものだ。名古屋港から陶磁器をかなりの数量輸出していることは知っていたが、名古屋の東区にまとまった陶磁器産業があるとはまったく知らなかった。
わたしは名古屋輸出陶磁器協同組合(これ以降は協同組合と略す)に就職したが、昭和32年に名古屋陶磁器調整組合から改組した名古屋陶磁器工業組合(これ以降は工業組合と略す)が新しい事業を始めるに当たって職員を募集したため、最初はかなり工業組合の仕事をした。
協同組合と工業組合の組合員はほぼ同じ顔ぶれで、いずれも加工完成業者。協同組合は組合員のために資材の共同購入などの事業を行ったが、なかでも、その当時の事業の柱は金融、つまり金貸しだった。当時は中小企業が金を借りることは非常に難しかったため、組合が銀行から借りて、少し利息を上乗せして組合員に貸す事業を、多くの組合が行っていた。その後、銀行が直接、中小企業にお金を貸すようになると、組合の金融事業はなくなっていたが(協同組合の金融事業は昭和56年に廃止)。
一方、工業組合は、組合員のルールづくりが主な事業だった。たとえば、最初にやったのは窯の登録。これは過当競争を避けるために生産設備を制限するのが目的で、窯をつくる場合は、他の人から窯の権利を買わないといけなかった。こうしたカルテルは独占禁止法によって禁止されているが、当時は、法律に基づいて特別に認可されれば許された。
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【協同組合の事務所が入っていた名古屋陶磁器会館】 |
──小椋さんが組合に就職した当時、陶磁器会館にはどんな人たちが入っていたのか?
小椋: 協同組合、工業組合のほかには民間企業がいくつか入っていた。貿易の日本社(のちの日本陶業新聞社)、貿易商社の大商とウィリアム・E・カーナ、金液の大研化学など。
組合が使っていたのは玄関を入って右側の部屋で、当時、職員は9人だった。また、1階の奥が応接間。2階の大広間は総会などに使っていた。
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【協同組合の事務所だった部屋は
現在レザークラフトのお店「canine republic」として利用されている】 |
組合職員は金融事業担当、経理、庶務、事務、タイピストなどがいたが、昭和34年に再建された名古屋城内の売店で陶磁器土産品を販売する担当者が一人いた。これは名古屋城が再建されたときに、組合が手を挙げて売店に参加することになったものだ。販売したのは組合員がつくった陶磁器製品で、お城の置物とか灰皿などだった。当初はかなり売れたようだが、その後徐々に売上は減り、昭和52年に撤退した。当時は輸出が伸びていた時期だから、どうしても片手間になり、新しい商品開発にも力が入らなかったのが原因だろう。
わたしが組合に入ったときの給料は8000円くらいだった。その後、毎年昇級していったが、まあ、他の業界に比べて、給料は低かったと思う。
わたしは、仕事は誰にも教わっていない。新しい仕事ばかりだったから誰もやり方を知らなかったからだ。一番はじめにやった仕事は工業組合の事業で、ノベルティの最低価格のチェックだった。輸出検査をするための事前審査として、品目ごとに決められていた最低金額が守られているかどうかをチェックした。要するに、あまり安い金額で輸出されては業界が困るから、それを事前にチェックしたわけだ。1才当たり(1立方フィート)いくらかが決められていた。この最低価格の事業は1、2年で終わり、その後、工業組合は数量調整事業を始めた。