田澤:わたしは横浜生まれの東京育ちです。大学時代に美術史を専攻し、源内焼を研究テーマとしていました。源内焼というのは、平賀源内の指導によって生まれた浮き文様を伴う軟質施釉陶器で唐三彩に似た焼きものです(18世紀後半)。当時、源内焼に関する論文はほとんどなく、一応、卒業論文は書き上げたものの、もっと陶器のことを知りたいと思って、この地方へ来ました。陶器屋さんと関わっていれば、自分が知りたいことに出会えるかなという希望を持っていました。
服部時計店の重役の名刺を持って三郷陶器へ工場見学に行くと、丁寧に案内してくれました。本当は日本陶器へ入りたかったのですが、難しかったので、結局、三郷陶器へ入社。すると、入社して間もなく、「お前は大学を出ているから子会社の春日へいけ」と告げられました。昭和35年の頃です。
当時、春日の事務所の隣に社員寮がありました。その寮の部屋は19号線に面していて、朝の4時半になるとトラックが通る音で目が覚めたのをおぼえています。春日は三郷陶器の製品をアメリカへ輸出するのが主な仕事でしたが、アメリカ以外の地域、たとえばオーストラリアやヨーロッパなどをカバーする部門があり、わたしはそこに配属されました。
三郷陶器の製品はアメリカ向けなので、様式や嗜好の違いから、アメリカ以外の地域では売れない場合が多く、結果的に、日本各地から雑貨を集めてくることになりました。陶器はもちろんですが、小田原の木工とか、燕・三条の金属食器、高岡の銅器など。日本の工芸品が各地にあると言うことを勉強できて、とても楽しかったですね。
田澤:その後、昭和44年、エネスコジャパンという商社が取引先を一つ増やすに当たって、新しい担当者を捜しているときに、引き抜かれました。エネスコジャパンの本来の経営者であるアメリカ人のミラーさんに気に入られたからです。会社は安江信子さんが登記上の代表となっていました。引退後お二人はアメリカで正式に結婚され、晩年はサンフランシスコ郊外にて過ごされました。家内と共通の趣味をお持ちであることが偶然わかり、お二人の最晩年まで家内同伴で毎年訪問し個人的な交流をすることが出来ました。
エネスコジャパンはノベルティ専門の商社でした。春日時代、海外へ出張したときに、これからはディーナーよりもノベルティの時代と感じていたので、その求めに応じたわけです。
ただ、入社して2年後の昭和46年、ドルと各国通貨との交換レートが改定され、1ドル=360円から308円へ切り上げられました。そのとき、ミラーさんは、日本の店をたたまないといけないと思ったようです。さらに、その2年後の昭和48年に変動為替相場制へ移行すると、その後はもうばたばたでした。
もはや輸出は難しいということで、雑貨を輸入して国内販売に転換することなり、わたしはイタリア、スペイン、フランスなどをまわって、初めてのバイヤーの経験をしました。楽しかったですが、買ってきたもので売れたのは3割くらいでしょうか。陶器、日本のメーカーがつくっていないものを買ってきたので、よく売れました。そのほか、アンティークの模造銃は飛ぶように売れました。
しかし、昭和52年頃になると、輸出はほぼゼロとなり、わたしが入社した昭和44年には20名近かった社員が4、5人に減っていました。結局、会社は昭和53年に閉鎖となりました。