HOME>業界人のお話>第31回 田澤 彌太郎 H26.4.24
業界人のお話


第31回 田澤 彌太郎 さん



昭和12年1月17日生まれ。陶磁器輸出が華やかだった頃からその衰退期まで、さまざまな商社やメーカーで働く。 瀬戸ノベルティの名門、丸山陶器の最後の番頭。



――陶磁器業界に入るきっかけは?

田澤:わたしは横浜生まれの東京育ちです。大学時代に美術史を専攻し、源内焼を研究テーマとしていました。源内焼というのは、平賀源内の指導によって生まれた浮き文様を伴う軟質施釉陶器で唐三彩に似た焼きものです(18世紀後半)。当時、源内焼に関する論文はほとんどなく、一応、卒業論文は書き上げたものの、もっと陶器のことを知りたいと思って、この地方へ来ました。陶器屋さんと関わっていれば、自分が知りたいことに出会えるかなという希望を持っていました。
  服部時計店の重役の名刺を持って三郷陶器へ工場見学に行くと、丁寧に案内してくれました。本当は日本陶器へ入りたかったのですが、難しかったので、結局、三郷陶器へ入社。すると、入社して間もなく、「お前は大学を出ているから子会社の春日へいけ」と告げられました。昭和35年の頃です。
  当時、春日の事務所の隣に社員寮がありました。その寮の部屋は19号線に面していて、朝の4時半になるとトラックが通る音で目が覚めたのをおぼえています。春日は三郷陶器の製品をアメリカへ輸出するのが主な仕事でしたが、アメリカ以外の地域、たとえばオーストラリアやヨーロッパなどをカバーする部門があり、わたしはそこに配属されました。
  三郷陶器の製品はアメリカ向けなので、様式や嗜好の違いから、アメリカ以外の地域では売れない場合が多く、結果的に、日本各地から雑貨を集めてくることになりました。陶器はもちろんですが、小田原の木工とか、燕・三条の金属食器、高岡の銅器など。日本の工芸品が各地にあると言うことを勉強できて、とても楽しかったですね。  


 

――春日の後はどちらへ?

田澤:その後、昭和44年、エネスコジャパンという商社が取引先を一つ増やすに当たって、新しい担当者を捜しているときに、引き抜かれました。エネスコジャパンの本来の経営者であるアメリカ人のミラーさんに気に入られたからです。会社は安江信子さんが登記上の代表となっていました。引退後お二人はアメリカで正式に結婚され、晩年はサンフランシスコ郊外にて過ごされました。家内と共通の趣味をお持ちであることが偶然わかり、お二人の最晩年まで家内同伴で毎年訪問し個人的な交流をすることが出来ました。
 エネスコジャパンはノベルティ専門の商社でした。春日時代、海外へ出張したときに、これからはディーナーよりもノベルティの時代と感じていたので、その求めに応じたわけです。
 ただ、入社して2年後の昭和46年、ドルと各国通貨との交換レートが改定され、1ドル=360円から308円へ切り上げられました。そのとき、ミラーさんは、日本の店をたたまないといけないと思ったようです。さらに、その2年後の昭和48年に変動為替相場制へ移行すると、その後はもうばたばたでした。
 もはや輸出は難しいということで、雑貨を輸入して国内販売に転換することなり、わたしはイタリア、スペイン、フランスなどをまわって、初めてのバイヤーの経験をしました。楽しかったですが、買ってきたもので売れたのは3割くらいでしょうか。陶器、日本のメーカーがつくっていないものを買ってきたので、よく売れました。そのほか、アンティークの模造銃は飛ぶように売れました。
 しかし、昭和52年頃になると、輸出はほぼゼロとなり、わたしが入社した昭和44年には20名近かった社員が4、5人に減っていました。結局、会社は昭和53年に閉鎖となりました。

 

――輸出の良い時代が終わりつつある時期ですね

田澤:その後、西武百貨店へ陶器の製品を納入していた日本アートチャイナという会社に勤めているときに、瀬戸の高木製陶から声がかかりました。当時、社長の高木鉱一郎さんは瀬戸の瀬戸輸出陶磁器工業組合の理事長をつとめており、組合仕事が忙しいため、社長の片腕として来てほしいと頼まれました。
 当時、高木製陶は、赤塚のシュミットブラザーズからの依頼でピーターラビットのシリーズのオルゴールを主につくっていました。ちなみに、シュミットブラザーズは、今の熊野屋さんの2階にありました。現在の熊野屋店主の熊田さんは、シュミットブラザーズで働かれていました。
 高木製陶はキャラクターをつくる技術が非常に高かったですね。わたしは社長の右腕として働きました。社長の弟さんが副社長で、原型師でした。原型師はそのほかに男性が2人、芸大出身の女性が1人いました。バイヤーは、ポストカードのようなラフな図案を見せて、こんな感じのものをつくってくれと依頼します。それらは表側から見たスケッチだけなので、裏側は想像してつくるほかありません。原型師にとって、それがとても難しいことでした。
 あるとき、東京ディズニーランドに納品する製品で、お正月のスタイルのミッキーとミニーをつくってくれという依頼がきました。ミッキーは羽織袴、ミニーは振り袖ですね。見本をつくるのに与えられた期間は1週間くらいだったと思います。出来上がった見本では、ミニーがなんか変なんです。よく見ると、後ろの帯の結び目がなくて、寝間着のようになっていました(笑)。表側のスケッチしかなかったので、原型師が帯の結び目をつくることを忘れてしまったんです。1週間という短い期間だったので、慌てて、正面のイメージだけでつくってしまったんでしょうね。当然、その注文はボツになってしまいました



――丸山陶器に入る経緯は?

田澤: 高木製陶には、昭和61年の年末まで勤めました。  
  わたしは会社を変わるたびに、お世話になった方々に挨拶してまわるんですが、高木製陶を辞めたときにも、いつものように挨拶してまわっていると、ある方から「丸山陶器が人を捜している。推薦するから、どこにもいくなよ」と言われました。
  約1ヶ月後、丸山陶器加藤豊社長がアメリカから帰ってくるとお会いして、昭和62年2月1日から丸山陶器に入社することになりました。ただ、丸山陶器は、翌年の昭和63年4月1日付けで閉鎖しています。だから、わたしは丸山陶器の最後の番頭ですが、在籍した期間は非常に短いんです。
  わたしが入社した当時、丸山陶器はレノックス社との取引が主体でしたが、円高が進行するにつれて、国内生産が難しくなっていた時期でした。レノックス社は、メイドインジャパンの製品がほしいという意向をもっていました。そこで、台湾の工場と提携して製品をつくってもらって、それを日本へ持ってきて丸山陶器で絵付けをして出荷するという態勢を整えたのです。しかし、レノックス社からの注文は、次から次に来るわけではありません。  
  結局、つくればつくるほど赤字になっていくという状態で、わたしは社員の身でありながら、「丸山陶器を閉めたほうがいい。これ以上、事業を続けると丸山の資産はどんどん減っていきます」と進言しました。加藤豊社長も相当悩んでいたようですが、ついに会社を閉める決断をしました。  
  わたしは、先代の奥さんに「お前さん、番頭のくせに、なんてことをいうのか」と叱られました。わたしは「丸山陶器の長い伝統があるのはわかるが、これ以上やっていれば、全ての資産がなくなります」と申し上げました。その半年後、先代の奥さんには「お前さんのお陰で気が楽になった」と言われました。 
  わたしは、丸山陶器が事業をやめたあとも、在庫の整理だとかお客さんへの対応などのために、その年の6月30日まで残っていました。
 
 【写真:レノックス社の注文により製造した丸山陶器製のノベルティ】
   
 【写真:ノベルティの裏印】

 その後、丸利商会から声がかかりました。日本以外でも働くことができるかと質問されました。わたしは陶磁器の工場なら、どこでもいいと思っていたので「どこでもいい」と答えると、メキシコ工場へいって現地の社長を補佐してほしいと言われました。入社したのが平成元年の5月で、8月にはメキシコ工場へ行きました。メキシコ工場は、アメリカ向けの鷲のビスク人形をつくっていました。そこには平成6年までいて、その後、今度はマレーシアのコタバル工場へ行き、平成8年まで勤めました。そこで、60歳となり定年退職しました。 
 こうして自分の陶磁器業界で働いてきた経歴を振り返ってみると、当初の源内焼を研究するという目的は叶いませんでしたが、非常に楽しかったですね。