HOME>業界人のお話>第32回  久野 師行 H26.7.22
業界人のお話


第32回 久野 師行 さん

オリジナル絵の具を開発し、業界に貢献
(株)スギムラ・セラミックスカラー

代表取締役 久野師行さん

1936年(昭和11)生まれ。昭和30年代、(株)スギムラ・セラミックスカラーの前身である杉村商店入社。先代の杉村一之助さんの娘と結婚し、その後、社長を引き継ぐ。輸入絵の具に負けないスギムラ独自の上絵付け絵の具を開発し業界に貢献したほか、いち早く台湾に進出して台湾のノベルティ産業を支えた。


――この業界に入ったきっかけは?

久野:わたしの父親は49歳で亡くなりましたが、陶器屋を営んでいました。杉村一之助さんと懇意だった関係で、わたしに仕事を手伝ってもらえないかと頼んできたんです。そのため、当時、わたしは商社に勤めていたのですが、そこをやめて、杉村商店(当時の社名)に入社することになりました。昭和30年代の頃です。もともと、ものをつくったりすることが好きだったので、仕事は性に合っていました。その後、杉村の娘と結婚し、昭和50年代、40歳代のときに社長に就任しました。
  昭和30年代は、このあたりには70軒くらいの絵付け業者がいたと思います。その当時は手書きが主流で、午前中に自転車で注文を聞いて、午後から配達にまわりました。昔は一斗缶を4つ自転車に積んで運んだこともあります。太いタイヤの自転車で、後ろの荷台に板を置いて積みました。今は灯油一缶積むだけでも怖いのに、昔はよくやったものです。
  瀬戸にも配達に行っていました。森下駅から瀬戸まで電車で行って、そこからは自転車で絵の具を配達して、夕方帰ってくるという感じです。瀬戸はノベルティをつくっていたので、絵の具の需要があったんです。


――その当時、定番の絵の具は?

久野:名古屋の絵付け業者によく売れたのは黒、白、ブルー、マゼンタ、黄色、赤などですね。ただ、黒でもブルーでも20色くらいあって、職人によって好みも違った。このブルーは濃すぎるとか、違う黒がほしいとかはよくありました。
 それと、絵付けの職人には、なにしろ早く持ってこいとよく言われました。それで鍛えられた部分はありますね。温厚な人もいましたが、たいてい職人は頑固でした。怖かったですね。「ええがね」ということが通じないんです。最初の絵の具と後で持ってきた絵の具では、色の出方が違うと言われることもありましたが、そもそも窯が均一でないので……。まあ、それを言ったらおしまいだから。(笑)
 名古屋の絵付け業者、職人はほとんど知っています。凸盛りの龍は島津さん、井上さん。 上飯田の鬼頭さん。「この若造が」とバカにもされましたが、よくかわいがってもらいました。
 盛りの絵の具は、茶碗を粉砕した茶碗粉(セラミックパウダー)を使います。しかし、あまり細かくすると、あとで絵の具が剥離してしまうので、ある程度粗く粉砕しないといけんです。
 盛りに使う道具の「かっぱ」をつくっていたこともあります。牛乳パックや広告紙で代用する場合もありますが、うちでは、和紙に柿渋を塗って、その後、ひまし油を3回くらい塗って、乾燥させるまでに約1年かけてつくりました。



――オリジナルの絵の具を開発した理由は?


久野:わたしが入社したとき、従業員は3人でした。絵の具屋というのは、卸売りだから、もともと人手は必要ありません。顔料メーカーから買ってきたものを小さく袋詰めして、自社のラベルを貼って販売するのが一般的な仕事です。しかし、わたしはスギムラ独自の絵の具をつくることをめざしました。
 その頃、ドイツなどの海外から上絵付けの絵の具が輸入されていました。日本の絵の具と比べて価格は非常に高かった。その輸入絵の具を取り寄せていろいろテストしてみると、これなら自分でつくれると確信した。だったら自分でつくろう、絵の具メーカーになろうと思ったわけです。ただ、それは、るつぼを使って顔料をつくるわけではなくて、何軒かのメーカーに指定した原料でつくってもらった顔料を混ぜて、独自の色をつくるというものです。
 試行錯誤をしながら40色くらい絵の具をつくって、転写屋へ持ち込んでみると「これいいよ」と評価された。輸入絵の具に比べて価格が安いうえ、輸入品の場合は小ロットでは買うことができず、50キログラム、100キログラム単位で買わないといけないけれども、わたしの絵の具なら10キログラムずつ買えるし、注文後、3日もあれば納品できる。こうしたメリットが評価されたのでしょう。
 名古屋、瀬戸で上絵付けの主流が手書きから転写に変わってきたのは、昭和50年代でしょうか。昭和60年になると、名古屋・瀬戸あたりで転写屋さんが60〜70件あったはずです。勝川の鈴木転写が、わたしの絵の具をよく買ってくれました。



――絵の具開発に当たって、最も気をつけたことは?

久野:オリジナルの絵の具は、ドイツやフランスの絵の具よりも
質のいいものをめざしました。今ではオリジナルの絵の具は、600種類くらいあります。その中で、定番として売れているものは50種類くらいです。
  新しい絵の具は、すべてわたし自身が開発しました。ものをつくり出すことが、もともと好きなんです。夜中の1時、2時まで、事務所で絵の具を調合したり、焼いたりしていたものです。家内には、「おとうさん、いい加減に寝てください」とよく言われました。(笑)
  絵の具開発において、一番気をつけたことはロットぶれです。一度に大量につくるわけではなくて、お客さんがほしいと言ったときに、その都度つくるため、常に均一な色を出すのは大変でした。だから、毎回、テストをして、細心の注意を払いました。比較試験をして、「これなら大丈夫」と判断したらラベルを貼って販売します。スギムラのラベルを張った以上は、スギムラに責任があるからです。こうしたことは、今も変わりません。
  なので、これまでつくった色見本はどれだけあるかわかりません。「良い財産だね」とよく言われます。今は息子のために配色表をつくっているところです。

 
【会社に入ると、絵の具見本がたくさん飾られている】  
   
【絵具の色見本 SP(SPECIAL COLOR)
粒子が細かく、艶がある】 
【絵具の色見本 LE(無鉛絵具)】 
  
【絵具の色見本 クリンカー*(ガラス盛りの見本)】 
 *クリンカーとは、コラレン(ガラス盛り)装飾に使うガラスビーズ

――台湾に進出したのもは早かったですね。

 久野:昭和60年頃、瀬戸のノベルティメーカーに頼まれて、台湾に進出しました。わたしがまだ40歳代の頃です。
 台湾では、かなり絵の具が売れました。台北の飛行場へ着くと歓待されて、夜中まで一人にさせてくれませんでした。頼むから自由にさせてほしいと思ったほどです。台湾には絵の具原料がなく、すべて日本から供給しないといけないため、他の企業にとられるといけないから、わたしを離さなかったわけです。 
 その時代は、台湾に顔料を送るため、寝ないで梱包したこともあります。450グラムずつ小袋に入れて送らなければいけなかったからです。どうしてかというと、大量に送ると、途中の過程で何か別のものを入れられる可能性があったからです。だから、ラベルで封印したものを送れと指示されていました。
 現在、台湾にノベルティメーカーはまったくありません。みんな中国へいってしまいました。  
 今のわたしの会社の売上の中で、輸出の占める割合は10%くらいです。国内の取引先は東濃の転写会社が主体です。かつての勢いはありませんが、今も東濃は日本一の陶磁器生産地ですから。あとは九谷、有田など。
 それと、関東や関西の陶芸教室のつながりが増えました。問い合わせや質問が非常に多いです。絵付けに関する本にまとめたらと勧められることもありますが、本にまとめてしまうと、そこで完結して、それ以上のことが追究できなくなってしまいます。だから、わたしは、ディスカッションしながら、解決策を見いだしていくやり方がいいと思っています。
 アドバイスを求められたときには、「失敗の繰り返しがためになるから、失敗しろ。それが自分のものになる」と言っています。