業界人のお話

第7回 佐々 一美さん
元(株)佐々ブラザース 代表取締役
現NAGOYA INTERNATIONAL SCHOOL Inspector Auditor
昭和9年(1934)、名古屋市生まれ。
昭和20年(1945)9月15日、東海軍管区参謀長からの電報(至急官報)が、疎開先の岐阜県上呂にいる親父(佐々新一)の元に届きました。 「レンゴウグン シンチュウニアタリ ヒトハタラキネガイタシ 十八ヒマデニ ライメイセラレタシ」 トウカイグンカンクサンボウテウ 日本の兵隊が皆復員する中、逆に出動の要請があったことに驚き、本来守秘義務を守るべき電信士が自分の家族に話してしまったのです。これがもとで村中が大騒ぎとなり、皆が赤飯を炊いて父を送り出してくれました。 父に要請されたのは、米軍による旧日本軍の武装解除(武器、弾薬の引渡し)の支援でした。その仕事を無償でおこなった謝礼として、同年に米軍が挙母町(豊田市)と 北区の長田町に、クリスマスのシーズンに向けてスーベニアストアを開設させてくれたのです。当時は空襲で通信網なども破壊されており、米軍との連絡や商売に困るだろうということで、米軍が大曽根から長田町まで電信柱を約20本も立てて電話線を引き、電話も使えるようにしてくれました。
商品の仕入れ先は大橋陶器さん、曽根磁叟園さん、小林陶器さんなどで、その製品の一部は現在陶磁器会館に展示されています。陶磁器の他には、新興漆器さんの漆器、着物、扇子なども飛ぶように売れました。 その頃小学5年生だった私は、メッセンジャーボーイとして進駐軍と店の間を行き来していました。今から思えば、この進駐軍の人達と片言で話したことが、私にとって初めて英語体験でした。
親父が戦前まで勤めていたウインクレル商会以来親交のあったバイヤーから、 「もうすぐ貿易が再開されるが、一緒に仕事をやる気はあるか?」との問い合わせがあり、 昭和22年(1947)の日本の貿易再開と同時に、親父の弟でニューヨーク在留経験のあった佐々茂と共に、株式会社佐々ブラザースを設立し、再び貿易を始めました。資本金は50万円だったと思います。資金は、母が家財道具を売り払って調達しました。商売は長田町で始めたのですがすぐ手狭になり、翌年に前ノ町(現東区徳川一丁目)に移転しました。 その時中学生になっていた私は、バイヤーのメッセンジャーやカバン持ちをするようになっていました。学校は普通に行っていたのですが、家に帰ると宿題もやらずに仕事を手伝っていました。
ある時、会社に出入りしていたベルギー・オランダのバイヤーが、私に「仕事の勉強をしに来ないか?」と言ってきたのです。親にしてみれば、所謂「人質」です(笑) 。最初、親父は本気にしておらず、冗談だと思っていたようです。 ところが、私が15歳になった時、バイヤーが本気で「これから連れて行く」と言うので、親父もさすがに驚いて、「いや〜、ちょっと待ってくれ、もう一年日本で勉強させてから...」ということで、翌年16歳になった1951年4月に、貿易実務習得のためニューヨーク経由でベルギーに行くことになりました。そのことは当時の新聞記事にも取り上げられました。
私がアメリカ経由で渡欧することを聞きつけ、競争相手である他のバイヤー達までもが、 「ニューヨークに来たらうちに寄れよ」、「道がわからなかったら、ここを訪ねろよ」と声をかけてくれたり、「内緒だけど、このドルを持って行け」と、お小遣いまでくれたのです。 当時日本人は外貨を持つことが許されていなかったものですから、皆さんには本当に助けていただきました。 とにかく私は喜んで渡欧しました。 親父も、「好きなようにしろ、生きて帰れたなら、また仕事をすればいい」と、ある程度の覚悟はしていたようです。 私自身、多少の不安はあったものの英語は大分理解できるようになっていたので、それ程心配していませんでした。ところが実際に渡欧してみると、英語は通じるものの、実生活ではオランダ語とフランス語が主流でした。貿易関係の方々は英語が話せたので助かりましたが、生活に慣れるまでの間は一苦労でした。自分では大人のつもりだったのですが、やはり16歳はまだまだ子供、結構現地でからかわれたりしました。 ベルギーでは一年間勉強しました。当時のヨーロッパは、まだ戦争が終わったばかりで、戦勝国といえども至る所で戦争による破壊の跡が見受けられました。物資が不足していたので、日本からの輸出品はどんどん売れました。 私は、月曜日から金曜日まで貿易実務の見習いをしていましたが、週末になるとフランスやドイツ、イタリアの陶磁器を収集し、親父のところに送っていました。これらは、ヨーロッパの製品からアイディアを得るための参考見本として使用されました。
ベルギーでの取引先は、港町アントワープにありました。その立地条件にも恵まれ、当初からはヨーロッパ向けの船積みがとても多かったです。 主な商品は和風陶器でした。妻木の染付碗皿やコーヒーセット、ティーセット、また九谷焼の花器などが飛ぶように売れていました。
始めはヨーロッパ中心だった輸出でしたが、次第にアメリカ向けの輸出が増え、アメリカが6割、ヨーロッパが4割位になっていきました。それにつれて佐々ブラザースの社員数も増え、多い時で36〜7名になりました。 ちょうどその頃、アメリカの主要取引先が分裂してしまい、分裂した主力部分(年商約10億円)との取引を、ミューチュアルトレーディング(佐々茂により設立)が受け持つことになりました。そして、佐々ブラザースには「主力でない」部分との取引だけが残りました。 当時、当社は銀行から借金をして4階建の社屋を建築中で、その2階までが完成した頃でした。取引先の状況が一変したことで、予定を急遽変更し、社屋の建築は2階止りとなりました。今から思えば、親父の迅速な状況判断であったと思います。商売の方はその後もなかなか盛り返すことができませんでした。当時、社員の数も多く、「社員の面倒は一生みる」という親父の方針も変えられず、それが企業の一般的な風習でした。 リストラせずに何とか盛り返そうと、その時から苦労が始まったのです。物凄く努力しましたね。 それまでは、少数精鋭の取引先を相手にじっくり商売をする方針だったのですが、徐々に間口を広げ、取引先を増やして商売を回復しました。 しかし、その後、業界の皆さんも経験された様に、為替レートの切り上げやオイルショックなど、手痛い社会の動きに翻弄されました。
昭和63年(1988)親父が80歳で引退し、その後を私が引き継ぐことになりました。親父の方針とは異なることもありましたが、様々な対策を講じて何とか以前の経営状態まで回復することができました。それでもやはり、皆さんもご承知のおとり、社会反動の波が日本の輸出陶磁器業界に与えた影響は大きく、当社も苦渋の選択として平成5年(1993)の春、約50年間の貿易商社の歴史に幕を降ろしました。 |
佐々一美様は平成24年4月28日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。