業界人のお話

第9回 長谷川徳幸さん
チャイナペインティング講師
愛知県優秀技能者
名古屋市技能功労者
――― 絵付けを始めたきっかけは? 昭和24年、中学生の時に親父が亡くなり、僕は上から3番目でしたが、兄弟が7人いましたから、上の方はどうしてもすぐに稼がないといけなくなり、親父が伯父(林樹一) 達と共同で営んでいた絵描き工場へ稼ぎにいくことになりました。 ――― そこで絵付けを覚えたのですね?。 初めのうちは素地を掃除するなどのお手伝いでした。伯父もすでに亡くなっていましたから、絵付けは親方から習いました。明和の夜間に通っていましたので、後に通学に便利な橦木町にあった中部陶器に移りました。それから一年程して自宅でやり始めることにしたのです。あの頃は忙しかったでしょう。あちらこちらから仕事を持ってきてくれました。だから私は早い時期に独立したわけです。親方についたのは初めのお手伝い程度だけでしたから、殆どみんな独学です。 ―-― メーカーさんから直接仕事がきたわけですか? 「持ってきてくれるなら描くよ」ということで出張はしませんでした。 焼くこともしませんから、運ぶ人は大変でしたね。だけど、慣れた人は上手いものでしたよ。運ぶための道具もありますし、擦れたら、メーカーさんにも見本描きや職人さんがいたでしょう。直せばいいのです。
――― どちらのメーカーさんのお仕事をされていましたか? 何軒も描いていましたよ。初めは松風陶器が主体でしたね。瀬戸の愛知製陶も多くやりました。そこでは見本付もやりました。名古屋では名古屋商会、遠藤陶器、 川谷商店さんのランプもかなり描きました。注文のあるところは殆どやりましたね。 ――― 得意なものは、どのようなものでしたか? みんな得意ですよ(笑)。盛りや金は下手ですが。 額皿もかなりありましたが、だいたいは食器でしたよ。瀬戸のものは置物やランプが多かったです。愛知製陶は素地もいろいろありますから、いろんなものを描きましたね。かなり大きなものを扱いました。愛知製陶の手描きのものは僕のものが主です。小さいものは面倒なのであまり好まなかったですね。 ――― 名古屋のメーカーはデコ盛りが半分以上でしたが、デコ盛りもされましたか? デコ盛りは出来ません。仕事では扱っていませんでした。イッチンを使って、盛りというのは、時々は使うことはあっても、本当のデコ盛りは殆どやったことがありません。 ――― どのくらいの速さで描かれていましたか? 速かったですよ。職人は速いことが一番大事なことです。単価から計算して、これは一日に20、これは30と、その割り出しができないとだめです。 いわゆる「値付け」といいますが、僕らは訓練していますから、 「この単価に合わせた絵を描いてくれ。」といった注文はすぐに受けられます。ですから、非常にメーカーさんにしても便利だったと思います。 だいたい輸出の売値はみんな決まっていて、それにはめる絵を描きました。職人にとっては、 「いい物を描け」と言われるなら嬉しいが、「安くやってくれ」と言われるのだから、ろくな物はできなくなります。 ――― どのような訓練をするのですか? 筆に乗せる絵の具をいかに少なくして、効果的に絵を描くかという訓練をします。いかに手を省いて美しく見せるかが一番大事なことです。手間をかけて綺麗に描くのは当たり前のことですが、余分な筆を使って綺麗になることはありません。サラっと一度に描くのが絵も色の出方も一番綺麗です。 そのように出来るだけ努力するといいのですが、それは実際に仕事としてやらないと覚えにくいことです。筆使いをちょっと覚えたら細かい絵というのはルーペを使って、目と根気さえあれば描けます。だけど、平筆の動きというのは、全然それとは違います。日本画や水墨画のタッチを活かしたいと思いますから、生徒さんにはできるだけ併用して覚えるように指導しています。
――― 個人に教えるようになったのはいつ頃からですか? 貿易が寂れてきたでしょう。仕事の量もだんだん減っていましたから、今後どうするか考えていました。それから、長く描いていますと、どうしても作品展みたいなものをやりたいと思うようになり、平成6年に初めて作品展をやりました。その時、関心のある人から教えて欲しいと言われたのが始まりでした。初めはその人の家庭へ教えに行きました。そこへ6,7人の生徒さんが集まり教えるようになりました。それが10数年前、平成になってからですね。 教室を持つということは楽しいことです。いろんな人と接触できますから。 ―――― 今はどちらで教えていらっしゃいますか? 覚王山で月曜日に教室を開いています。部屋は12人程の広さですが、生徒さんが10人では大変ですから、日にちを分けて来てもらっています。指導するのには5,6人が理想です。自宅では土曜日と火曜日に教えています。出張もしますので、週に4日は指導していますね。出来る限り、生徒さんの都合に合わせてやるようにしています。 ――― 生のお皿を運ぶのは大変ではないですか? 荷物は多いけれど、生徒さん達にとっては交通の便のよい所が一番なんですね。生徒たちは描くだけでいいですから。焼くものは先生が全部持って行くでしょう。 僕の場合は自宅で焼きますから、生のものを持って帰るのは大変ですよ(笑)。 生徒たちは擦れるのを心配していろいろ言いますが、「擦れたら直せばいい、良くなるぞ!」って言ってやります(笑)。 やはり割れ物ですから絶対に割れないという保証はないですから、神経は使いますよ。 ―――― 技術の継承についてはどう思いますか? 仕事としては需要がないですから、当然プロはいなくなりますね。育てるなら好きでやる人、ホビーの関係です。それしかないですね。生徒さんの中には、単なる趣味の域を超えて、しっかりとした目標としてこの技術を身に付けたいという人もいます。そのような生徒さんには力が入りますし、生徒さん自身も熱心です。週に一回や月に二回ではなくて、やりたいと思う時はいつでも家に来ます。その生徒さんには多少でも受け継いで欲しい、本物にしてやりたいと思います。やはり本人がやる気で才能もある人を見つけ出すことは必要なことです。 息子も娘もいますから、本当は受け継いで欲しいです。不思議と才能を持っていますから。親父もやっていましたが、母方の家系も皆絵を描きます。また上手かった。 小さい頃から、僕が絵を描くのを見ていたせいか、ちょっと筆を触らせるとかなり上手く描きます。やはり筆使いは速いです。だから本格的にやらせたらものにはなると思いますが、本人達がその気でないとだめですね。
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50年以上、どのような思いで続けてきましたか? 陶器の上絵を描くことは、たまたまそうなったことであり、違う道を目指したい、本式の絵をもっとやれたらと思うこともありましたが、僕は良かったと思っています。自分には向いていました。 職人でずっと通してきても、「皆には負けない。」、「やる以上は一番いいものが描ける、そこまでいかなければいけない。」という気持ちでやってきました。上手い人の絵を見ると、自分ももっと技術を磨かなければという気持ちになります。自分なりに最大の技術は出しているとは思いますが、まだ努力は足りないと思っています。会社勤めでしたら、もう定年の歳ですが、今でも現役でやれるのは特殊な技術を覚えたお陰だと思います。僕の場合はちょうどタイミングも合いラッキーでした。自分の力だけでなく周囲の助けがあり、技術を活かせたという感謝の気持ちでいます。 ――― 今、一番思うことは? ありがたいことは、一番身近な人である妻が非常に僕の技術を評価してくれ、助けてくれたことです。それがあったから続けられたと感謝しています。僕も何度と辞めようと思いましたが、仕事を変って自分に出来るものがあるかといったらないでしょう。それをカバーしてくれた人間がいたから、ここまでで続いたのです。今はいい生徒がたくさんいて、押し上げてくれていますが、そこまでになったのは妻のお陰です。めったに口には出さないけれど、心ではいつも感謝しています。それだけは忘れてはいけないことだと思っています。
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