名古屋陶業の歴史
名古屋陶業の成立
もともと、東海地方の陶磁器装飾技法には上絵付の伝統は乏しく、幕末期には伊万里を圧倒するほどの磁器生産力を持っていたものの、その大部分は下絵・染付ものでした。
名古屋に輸出向け上絵付け工場がいつ頃できたのか、はっきりした記録は残っていません。明治16年に、製造、販売合わせて244人が入会した「名古屋陶器営業組合」が設立されていますが、そこに上絵加工を業とする者が含まれていたのかどうかは定かではありません。
しかし、明治22年、東海道本線が全通するころになると、名古屋を中心とする上絵付業・加工問屋業がにわかに活発化し、 日清戦争(明治27〜28年)後には、現在の名古屋陶磁器会館がある名古屋市東区周辺に本格的に陶磁器業が立地し始めます。
それまでの名古屋の陶磁器業は商業的色彩が強く、物流に便利な市中央部に店舗を構える傾向が強かったのですが、明治20年代末から30年代始めにかけて輸出向けの比重が一挙に高まって、単なる中継拠点としてではなく、絵付加工のウエイトが高くなったからです。つまり、大量に荷物を動かすだけでなく、絵付加工のスペースが必要となったことから、地価の点で中央に比べ安い東部地区に陶磁器業が集まってきたわけです。明治29年には、森村組(ノリタケカンパニーの母体)が東京、京都の専属画工場を名古屋橦木町(東区)に結集するという、名古屋の陶磁器絵付加工にとって画期的な出来事が起きています。

▲昭和16年11月、会館建設功労者
井元為三郎翁の立像完成