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名古屋陶業の歴史


なぜ東北部に集まったのか

 それにしても、なぜ東北部だったのか。その理由は3つあります。当時、今の東区は名古屋市内の最東北端に位置し、商業地として未成熟で、武家屋敷跡も多かったため、大きな敷地を安く手に入れるチャンスに恵まれていたことが一つ。二つ目は、海外へ輸出する品物は、名古屋市中心部を流れる堀川でハシケ船に積んで四日市まで持っていって、それから東西の貿易港へ送るのを常としていたためです。名古屋港が開港(明治40年)して以降も、昭和30年頃まではハシケ積みのウエイトの方がはるかに大きかったので、わざわざ港近くに移動する必要がなかったわけです。そして、三つ目は、上絵付する前の陶磁器素地供給地である瀬戸、東濃にとって、東北部は名古屋の玄関口に当たり、交通、運輸上好立地だったためです。
 このような要因によって名古屋市東北部に陶磁器業が集まり始め、さらに大正時代後半になると、輸出陶磁器業といっても、実に多種多様な業態が営まれるようになります。問屋や一貫生産メーカー、絵付業のほかに、生産・加工に不可欠な各種原料、薬品業、輸出に関わる銀行、電話、通信、郵便、海運、運送業、包装業などが競い合ってこの地域に集中し始めます。また、伊万里、京都、九谷で育てられた上絵付工の多くも名古屋へ移ってくるようになりました。なんといっても、東濃、瀬戸の素地生産地をバックに、あらゆる地域向けの輸出品を加工製造しうる名古屋東北部の総合生産力は、それらの諸機能を呼び込むほどの吸引力を持っていたわけです。
 昭和初年になると、陶磁器という限られた商品であるにせよ、名古屋東北部の小さな区域が日本全国を引っ張っていく中枢管理機能を整えるに至ります。
 名古屋陶磁器会館はまさにその頃に建設されました。